139話 一度も ページ3
夜風が首元を撫で、汗がひんやりと肌にしみる。それでようやく汗が冷えていることに気が付き、鞄からタオルを取り出して汗をぬぐった。気づくのか少し遅かったのか、鼻がむずむずとしてくしゃみが出る。
その声に、不二先輩がパッと振り向く。
お互いに目が合うが、先輩はすぐにそらして躊躇いがちに声を出した。
不「ごめん。寒いよね」
貴「いえ、大丈夫です」
私も視線を地面にそらして、タオルを鞄にしまう。
初めて会った時でも、こんな他人行儀な会話はしなかった。心臓から喉の奥まで、ぎゅっと鷲掴みされたみたいに苦しく、無意識に唇をかむ。
しばらく無言のまま、夜風が通る音だけが聞こえていた。
すると先輩がためらいがちに腕を動かし始める。布擦れの音が聞こえるが、何が起こっているのか見るのが怖くてそのまま下を向いていると、不意に両肩に重みのある、大きな何かが乗った。
貴「え、あの……」
肩口には学ランが掛かっていた。不二先輩を見ると、白いワイシャツのみの先輩がいて、急いでそれを脱いだ。
それを見た先輩が、少し目を見開いて呟くように言う。
不「ごめん、嫌だったら」
貴「違います!」
見たことのない、困ったような、自信がないような様子の先輩に、咄嗟に大きな声が出ていた。
学ランを握りしめたまま、言葉を続ける。
貴「先輩、明日卒業式なのに、風邪ひいたら申し訳ないです。嫌じゃないです」
それがきっかけになったのか、私は重く閉じきっていた喉元が軽くなり、開いたのを感じた。
不二先輩を見つめると、少し驚いたように目を開いて私を見ている。
貴「嫌なんかじゃないです。不二先輩にしてもらったこと、嫌だって思ったこと一度もないです」
私は持っていた学ランを不二先輩の目の前にぐっと差し出す。先輩は私と学ランを交互に見ながら、躊躇いがちにそれを受け取った。
貴「私の勘違いだと思ってました。先輩がいつも、誰にでも優しいことは当たり前だし、私だけじゃないし、みんな同じだって」
先輩が、何か言おうと口を開きかけて噤む。視線で私にその先を促した。
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作者名:葉奈 | 作者ホームページ:http://uranai.nosv.org/u.php/hp/hana1/
作成日時:2022年8月26日 17時