feel ページ8
5時間目の途中で、教室に戻ってきた。
あまり音を立てないように後ろのドアを開けたのに、立て付けの悪いそれはガラガラと重たい音を立て、努力むなしくクラスの視線を浴びることになった。
「…二宮くんどうしました?」
若い数学の教師が板書の手を止めて振り向く。
「気分悪かったんで…保健室にいました」
「そう、無理しないでね」
ありきたりな言い訳でも、普段の態度が真面目なら通用するものだ。
俺を見ていたクラスメイトも、面白くないというふうに視線を前に戻す。
窓際の席につくと、頬杖をついて窓の外を見た。
依然として雨はザアザアと降り続けている。
----『またピアノ弾く?』
あのあと、大野智は、コクンと頷いた俺を見て満足げに微笑み、濡れた体で廊下のむこうへ行ってしまった。
窓から中庭に満ちる雨を見て、その中で遊びまわる智を想像する。
雨粒を飲み込んだ赤い舌。ゆっくりと上下した喉仏。濡れたシャツに透ける肌の色。水滴が流れ落ちて行った首筋、手首、腕。
細部までありありと思い浮かべることができた。
それは、やっぱり、この世界で一番目か二番目くらいに無骨で、それでいて美しいもののように思えた。
----『俺、二宮和也って言うんだ』
彼と友達になろうだとか、彼のことを好きだとか、そんなふうに思ったわけではない。
ただ、これから先、あの男がどのように呼吸し、どんな顔で笑い、泣き、怒るのか
どんな理由で何を選んで何を捨てるのか、何を慈しみ何を嫌悪するのか…
それをずっと、見ていたいと思った。
あの雨の光景は、俺にとってそれほどまでに刺激的だった。
自由。
そう、彼は限りなく自由に近い存在に見えた。
ピアノの前から動けなかった自分にとって、傘という盾を捨てて雨の世界に溶け込む智が、自由そのものに見えて。
羨ましさに胸が焦がれ、喉が焼けそうだった。
この頃はまだ、智の視界に入ることと彼を見ることが精一杯で
自由の象徴のようなその人にひたすら憧れていた。
俺はそれから、寝る間も惜しんでピアノを弾くようになった。
ピアノが連れて行ってくれる音の世界が、唯一の自由だったから。
智が夜、星やネオンの光に目を細め 手を伸ばしているあいだ、
俺は虫歯の怪物のような鍵盤に指を走らせ、自分の心の中の世界を構築していった。
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作者名:きんにく | 作成日時:2020年4月19日 0時