hell ページ1
四六時中ピアノに縛り付けられているのと、四六時中まっしろな部屋で手足を拘束されているのは、どちらが地獄なんだろうか。
グランドピアノが初めて部屋に来た時、鍵盤蓋を開けて見えた白と黒の不規則な並びは、大きな虫歯の怪物を連想させて怖かった。5歳だった。
その虫歯の上に指を走らせる。
ショパンの幻想即興曲。
ショパンの作品の中でよく知られているものの一つで、ピアノだけじゃなくオケ用にも編曲されてさまざまな楽器で演奏されている曲だ。
左手と右手でテンポが異なっているため弾きづらい。「指が回らない」と挫折する人もいるほど細かな音符が並んでいる。
『泣いてるみたい』
中規模のオーケストラ楽団の指揮者の父。ピアニストの母。
漫画に出てくるような音楽家家庭で育った俺。
小学校時代、放課後も土曜日も日曜日もピアノの前に座らされていた俺は、息をするように譜面は読めても、クラスメイトの落とした消しゴムさえ拾ってやれなかった。
友達のつくりかたを知らないまま、高校生になった。
休み時間は机に突っ伏して寝ていればいいけど、長い昼休みだけはどうにもならなくて、音楽室に逃げていた。
学校の、古くてチューニングのあってないグランドピアノで弾いていた幻想即興曲。
練習したての頃は、感情の入る余地などないほど忙しく回っていた指も、慣れるとそこに強弱や抑揚をつけ始める。貪欲に。
その音楽に入り込めば、何でも忘れることができた。
だからいつも、何かを忘れたいときに弾いていた。
学校に居るときは、学校に居ることを。家に居る時は、家に居ることを。
いつも、ここに居ることを忘れたくて。
だけどどこに行きたいのかなんて分からなかった。
だからピアノを弾いた。
『泣いてるみたい』
夢中で弾いているときはチャイムの音も聞こえなくなる耳に、いやにはっきりと入って来た声。
くるくると回っていた指が余韻を残して止まり、顔を上げると
『やめちゃうの?』
閉じたまんまのグランドピアノの屋根に、頬杖をついてこっちを見ていた。
それが、俺とその人との出会いだった。
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作者名:きんにく | 作成日時:2020年4月19日 0時