幾夜寝覚めね

三十三 ページ34

「さぁさぁ退いた退いた！」

先ほどまでの雨が嘘みたいに、吉原の仲之町はいつもの賑わいを見せていた。
沢山の提灯がまるで昼の様にあたりを照らす。

「雛鶴屋、和泉花魁の御成」

今夜私は神様になる。夢か現か、この場所に、私は自らの足で
自らの在りかを確かに刻み付けていく。ここにはずっと焦がれてきた景色があった。

今日までこの身に起こったすべてのことが、思わず愛しく思えて視界が滲む。

「美しかぁ…」

雑踏にまぎれ、みすぼらしい格好の少女がこちらを見上げてそう言った。

不幸な子、かわいそうな子、周りはそう見るだろう。
確かに売られてきたことは不幸な事なのかもしれない。
けれども、ここで始まる新たな人生は籠の鳥として飼いならされることばかりではないこと
を私は彼女に伝えたかった。

「いらっしゃい」

唇からこぼれた言葉は、鼓膜を大きく揺さぶった。
少女のガラス玉のような大きな瞳が爛々と灯りに輝いた。

打掛の重さも、高下駄の鎖も全て捨てて、このままどこまでも
歩いていけそうな高揚感に包まれている。
囃す観客たちも少し前を歩いていく行列も、私の世界を彩る提灯にすぎなかった。

「A！」

突然、誰かに名前を呼ばれた気がした。しかし周りが気にする様子もないし、
気のせいだろう。

「A！」

やはり今、はっきりと聞こえた。何事もないように進む道中の列とは
対照的に、見物客の間には明らかにざわめきが広がっていた。

＿＿＿＿＿＿＿あの人だ。

拭っても拭っても、焼き付いて離れない声。
今さらなんだというのか。私は無性に腹が立って、決して振り返るまいと
じっと前だけを見て進んだ。

「俺は、お前に謝りたいだけなんだ！おい、退けよ、邪魔すんじゃねぇ！」

長柄傘の向こうに迫った言い訳には、聞く耳を持ちたくなかった。
あの日からずっと私がどんな思いで今日まで来たのか、彼には到底わからないだろうし、
分かってほしくもなかった。

男衆にでも押さえられたのだろう、もみ合う声が次第に遠くなっていく。

「……A」

苦しそうに吐き出された私の名前を最後に、背後の声はぴたりと止んだ。

これ以上、私の心を乱さないで頂戴。

まわりからの好奇の視線に、私は泣き出したい気持ちになった。

うすらと滲んだ視界の奥に、引手茶屋の輪郭がぼんやりと映った。

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