癒 ページ10
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櫻井が、夕食の後片付けのために大野の部屋を訪れたのは
食事を持って行ってから、2時間が経った頃だった。
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本来は、お客に食事を出してから、酒などが無ければ1時間後に下げるのが、この宿の基準なのであるが
大野は2時間空けてくれと、相葉から言伝があった。
(食べるのが遅いんだろうか…たしかにぼんやりした人だった)
縁側の方に顔を向けて、机に凭れて眠っていた顔は、至極おだやかだったのであるが
纏う雰囲気に、弱っている人の不安定さがあった。
何も悪いことなどしていないのに、どこか申し訳ない、というふうに、終始肩を強張らせていた。
泣いているように潤んだ瞳から、いつ涙が落ちてしまうか、櫻井は気が気でなかったのだが、彼はそういう体質であるらしかった。
声が、一時的に出なくなっているのだそうだ。
しかしそのことは、櫻井にとって、さほど重大な問題には感じられなかった。
(…しかしうちの離れに2週間だなんて、随分稼いでるんだ)
本館から、離れに続く庭に入り、緑のふかい香りを吸い込みながら、ようやく木製のドアの前に立った。
指の背で、ゆっくり3度、ドアをたたく。
10秒、頭の中で数えてから開けた。
部屋に続く扉を開けると、大野は、机に持ってきた食事を前にして座っていた。
部屋に入って来た櫻井に気がつくと、大野は気まずそうに俯く。
手には箸が握られていたが、食事の方は、魚の腹がひとくちぶんと、前菜のほうれん草がふたくちぶん、減っていただけで
ほとんど進んでいなかった。
食べられなかったことは、とくに構わないのだが
2時間ずっと、こうして食べられない食事を前に座っていたのだろうかと思うと、大野が不憫だった。
【お下げしても宜しいでしょうか】
大野の筆談のために置いてある紙に、そう書いた。
申し訳なさそうにぎゅっと握っていた箸を、大野はそっと元の場所に戻して
【おいしい味がすると思うのに
ごめんなさい】
そう書いて寄越した。
ひどく気の落ち込んでいる人は、たまに味覚がぼんやりと鈍くなるということを、前に聞いたことがあって、それをふと思い出す。
大野は、残してしまった食事を見るのが辛いようで、ふいと、縁側の、閉められた窓の方へ顔を向けた。
目の、うすい涙の膜。
影を落とすまつ毛。笑みをどこかに忘れてきたような、静かな頬の曲線。
(…儚い感じがする)
櫻井は、なるだけ早く、机の上の食事を片した。
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きんにく(プロフ) - 律さん» 律さん!こちらにも来ていただいて本当に幸せです〜ありがとうございます(泣)ご期待に添えるようなお話が書けたらなと思います! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - はるさん» はるさんはじめまして!お越しいただき誠にありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて幸せです♪がんばります! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
律(プロフ) - やっぱりきんにくさんの小説が大好きです!癒しです!続き楽しみにしてます! (2021年1月6日 19時) (レス) id: 820f2de8f4 (このIDを非表示/違反報告)
はる(プロフ) - きんにくさん、初めまして。素敵なお話ありがとうございます。これからも楽しみにしています。 (2021年1月6日 11時) (レス) id: 6cd0f843d6 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - satominさん» satominさんありがとうございます♪毎度毎度、恐縮でございます。おおお…私が読んでる本は暗くて長くて素敵な本です(笑)その人たちみたいに書けたらなあと思いながらなかなか…な日々です(笑)嬉しいことを聞いてくださってありがとうございました♪ (2020年12月28日 23時) (レス) id: 3c003d42b5 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:きんにく | 作成日時:2020年10月19日 16時