海 ページ26
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宿に入って数日間は、波のように、浮いたり沈んだりしながら過ぎて行った。
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自分で声を出すことができないので、大野は1日のほとんどの時間を、そっと耳を澄まして過ごすことになった。
庭からは、風が吹けば葉の擦れる音がして、吹かなければ小さな鳥のさえずりが聞こえた。
朝と夕に、相葉が食事を運んで来るときは(基本的に食事を運ぶのは彼の仕事らしかった)、彼の爽やかな声と、優しく微笑んだときの、ふ、という一瞬の息漏れを聴いた。
日暮れに、ごくまれに、遠くの遠くで 子どもが大きな声でなにか叫んでいる元気な声が聞こえることもあった。
夜、ベッドに入れば虫の鳴き声が聞こえた。それは大野の心持ちによって、泣いているように聴こえたり笑っているように聴こえたりした。
畳に寝転んだときのザラリという音や、食事の際に箸と食器がコツンと当たる音。
それらが鳴るたび、耳を澄まさなければ拾えないほど小さな音量に、大野は安心した。
逆に、比較的大きな音を聴くことを恐れた。
例えば、強い風でたまたま開いていたドアがバン!と閉まったときが一度あったのだが、
その夜はわけのわからぬ恐怖に苛まれて、布団を頭まで被っても眠れなかった。
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机の上に置かれたメモ帳とボールペンは、櫻井が部屋に来ない限り、使用することはなかった。
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相葉が、大野がイエスかノーで返事ができるような、かんたんな会話の繋ぎ方をしたからである。
つまり、どんな場面でも、こくんと頷くか ふるふると頭を横に振るかで意思表示をしておけば(おおよそ頷くだけであったが)、大野は不自由なく過ごすことができた。
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不自由は無かったけれど、まったくの自由というのも、困ったものだった。
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まず大野は、自発的に何かをしよう、という気分になれなかった。
相葉が食事を運んできてくれれば、それを食べねばと思うので良かったのだが、それ以外の時間の過ごしかたを、ひとつも思いつかなかった。
朝と夕方、食事が出る以外の時間、大野は自分が立っていていいのか座っていていいのか、あるいは起きていていいのか寝ていていいのかも分からず、
しかし宙に浮くことはできないので、仕方なく、重力のかかるままに畳に寝転んでいた。
眠くなれば目を瞑ったが、そうでないときはぼんやりと瞼を上げて、手の形を見たり伸びた爪を噛んだりした。
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きんにく(プロフ) - 律さん» 律さん!こちらにも来ていただいて本当に幸せです〜ありがとうございます(泣)ご期待に添えるようなお話が書けたらなと思います! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - はるさん» はるさんはじめまして!お越しいただき誠にありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて幸せです♪がんばります! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
律(プロフ) - やっぱりきんにくさんの小説が大好きです!癒しです!続き楽しみにしてます! (2021年1月6日 19時) (レス) id: 820f2de8f4 (このIDを非表示/違反報告)
はる(プロフ) - きんにくさん、初めまして。素敵なお話ありがとうございます。これからも楽しみにしています。 (2021年1月6日 11時) (レス) id: 6cd0f843d6 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - satominさん» satominさんありがとうございます♪毎度毎度、恐縮でございます。おおお…私が読んでる本は暗くて長くて素敵な本です(笑)その人たちみたいに書けたらなあと思いながらなかなか…な日々です(笑)嬉しいことを聞いてくださってありがとうございました♪ (2020年12月28日 23時) (レス) id: 3c003d42b5 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:きんにく | 作成日時:2020年10月19日 16時