【ヒプノシスマイク短編集】俗悪

19.蜘蛛の糸(毒島メイソン理鶯) ページ19

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また指先に伸びる影をぶらさげて、ただ不信感に堕ちる種を蒔いては、まだ遠くで聞こえる電車の走行音に耳を澄ませる。揺れる水平線が視界の端で光に似たかがやきを反射した。
小官はようやっと、眼球だけをちらと動かして蝶形骨の空洞を見遣った。ああ、透明色の気体は何も言わないままで夜に染められてゆく。全く以て唐変木。さみしげに闇をはらむそれを視線でなぞるだけで、Aは其処で笑っているような気がした。
独りきりの世界で咀嚼をくりかえす小官は滑稽なのだろうな。どうしようもないペシミズム、これでは地獄に居るも同じ。小官の内のうごめく内臓を、鮮やかに飴色の風が侵食する。
「好きだったのに。」声。
血を飲んだ喉が焼けそうに渇ききって、また小官は呼吸が下手になる。
貴女はとてもうつくしかったのだ。
貴女はとても美しかったから、何もかもを小官のものにしたくて。

これでAの声といっしょになれるなら、小官はこのまま勘違いみたいに恋をして、戻らなくていい。
貴女と共に在りたい。成りたい。果てたい。
小官は貴女のすべてが欲しくて、肆に、それだけを。
最後を嚥下すればAは世界からいなくなる。

Aの残骸は皿には残らずに、小官の体内を循環して、やがてひとつになる。それは終焉だ。しかしはじまりでもある。そのどちらかの呼吸の方法を。あなたに教えてほしくて。
空はすっかり黒を纏って、小官を瞞すようにわらっている。飴色の風が止んでももう、Aの声はもう聞こえない。聞こえない。聞こえない。それで良かったのかもしれない。腹の奥に生ぬるく淀む肉塊は、只管に黙りこくるばかりだった。ここにも等しく、じきに夜が来る。融解する貴女が、静かなままで消えてゆく。
辺りには音が無くなった。
暮れなずみそうに眩む薄い街灯のあかりが、くぼみ落ちた命をぼんやりと照らしては、小官の無い心を抉るように痛ませる。Aとともに息が出来たなら、何も知らなくて良かったのに。
「好きなんだ。」
こんなことをしてでも貴女を他人に遣りたくなかった。
どんなにAを呼んでも、愛を呟いても、背骨にくちづけても、Aの声はもうきっと、小官にはもどらない。ただ消えてゆくだけ。朽ちてゆくだけ。最初から何もなかったかのように、世界は知らない振りで眼を逸らす、それだけ。
口の端の血液を拭った。温度の低い風が吹いて暗い草木を揺らす。この地獄で、貴女と、生きていたい。

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