92 決裂の代償 ページ42
「私、もうバイオリンしない」
神童は絶句した。そりゃそうだ、今の今まで音色を奏でていたというのに、急にそんなことを言われたら。
静寂が場を支配する。それまでの九年の人生の中で一番重苦しい沈黙だった。
「ど、どうして？ バイオリン嫌いになっちゃったの？」
慌てたように詰め寄られ、一歩後ずさる。
「釣り合わないんだって、私と神童くん」
今思えば支離滅裂な回答だったけど、これだけ言うので精一杯だった。
再びの静寂。深い穴に引きずり込まれたような、そんな虚脱感が神童の顔を支配していた。
──なんでそっちがそんな顔するの。私が持ってないものを全部持ってるのに。その腕ならどこでだって通用するはずなのに。
侮辱された、と感じた。
私は神童が何か言う前に道具一式を手早くケースに戻し、その場を後にした。
それからバイオリンは押し入れの奥にしまわれ、私が神童家に赴くこともなかった。
＊
重い瞼を開ける。
時計の針は21時過ぎを指していた。いつの間にかうたた寝しまっていたらしい。
長い夢を見ていた気がする。砂を噛んだような不快感を頭に残しながら立ち上がった。先に風呂に入ってしまわなければ。
ドアを開けると、目の前に母さんが立っていた。
「A……さっき、バイオリン弾いてた？」
驚いた様子でそう言われ、私は黙って頷く。
元々壁の薄い家だ、防音シートくらいで密閉できる音量ではなかった。
「ごめん、これからちょっとうるさくなるかも」
神童に聞かせるための練習をしなければならないからだ。
部活終わり、帰ってきてからの数時間……大して上手くない演奏を家に響き渡らせるのは少々忍びない。
「またやりたくなった？」
優しくそう聞かれたけど、私は曖昧に言葉を濁した。
バイオリンを始めた頃の高揚感なんかは、まだ取り戻せていない。
＊
それからの日々は流れるように過ぎていった。
放課後は刻一刻と迫る地区予選決勝に備えての練習。対戦相手が海王学園に決まり、みんなのやる気は十分だった。
天馬は天馬で何やら新たな特訓を始めたらしく、いつも時間ギリギリまで剣城とボールを追いかけている。
家に帰ってから二時間ほどはバイオリンの練習。披露する一曲を決め、ひたすら弾き続けた。
余計なことは考えず、曲の完成度を上げることだけに集中した。
幸いにも、身体がバイオリンに対して拒否反応を示すことはなかった。
そして、神童との約束の日。
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年2月15日 9時
