93 触れたG線 ページ43
メイドさんたちのお出迎えに恐縮しつつ、神童の部屋へ。
「拓人様、A様がお見えです」
「通してくれ」
中から神童の声。扉を開けてもらって、おずおずと一歩を踏み出す。
「お邪魔します……」
そこは五年前とあまり変わっていなかった。
鎮座したグランドピアノ、ソファとローテーブル、トロフィーを飾る棚。部屋に対して家具の数は少ない。神童はあまり物を持たない主義だった。
「来てくれてありがとう。とりあえず座ってくれ」
言われた通りソファに腰掛け、傍らにそっとバイオリンケースを置く。
しばらくしてメイドさんが紅茶を持ってきてくれた。スーパーで買ったものなんかではもちろんない、香り高い高級品だとすぐにわかった。
しばらくお互い無言でいた。
私の心は知らず過去へ引き戻されていた。神童も恐らくそうなのだろう。
毎日のように一緒に演奏し、語らったのはこの部屋だった。「もうバイオリンしない」と一方的に別れを告げたのもこの部屋だった。
様々な思い出がその時の感情と共に一気に胸の中に込み上げてきた。動揺を悟られないように、熱い紅茶を一口飲む。
沈黙を破ったのは私だった。ケースを開け、本体と弓を取り出す。早く終わらせて帰ろうと思ったのだ。
ピアノの音を頼りにチューニングをさせてもらう。鍵盤に置かれた神童の手は、当たり前だが五年前よりずっと大きい。
「あんまり期待しないで」
それだけ前置きして、構える。
深呼吸をひとつ。神童が、こちらを見ている。私の演奏を聞きたいと言った神童が。
五年前のどす黒い感情が不意に一気に思い起こされ、額に汗が滲んだ。目を閉じる。何も考えるな。曲にだけ集中しろ。
弓を、引く。
Eの音から始まったのは──バッハ、G線上のアリア。
この曲を選んだのに深い意味はない。最初にぱっと思いついたからだ。
ゆったりとしたアダージョのテンポ。自室で演奏した時よりもよく響く音色。
随所に配置された不協和音が、寂しさを喚起させる。一転、後半に向けて、穏やかで温かみのあるメロディへ。
約五分の演奏の後、Cの和音で曲は終わりを告げた。
ぱちぱちという拍手の音を聞きながら、ゆっくりとバイオリンを下ろす。どうにかミスなく弾けたことに安堵する。
「ありがとう……やっぱりAはすごい。真ん中に一本芯が通った音をあれだけ見事に出せるなんて」
神童は微笑みながらそう言った。
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年2月15日 9時
