325 失われた笑顔 ページ18
「あ……ご、ごめん。私……」
──こんなに強く反論するつもりはなかった。
Aは目の前にいる二人の顔を見ることができなくなった。鞄を握った手に、汗が滲んでくる。
「……いえ、俺が悪いんです。すみませんでした」
天馬は言って、頭を下げた。
場にはなんとも言えない空気が漂う。
Aは顔を青ざめさせたまま、立ち去っていった。二人は無言でその後ろ姿を見送った。
神童はAが靡かせるセミロングの髪が曲がり角の向こうに消えるのを見て、ぽつりと口を開く。
「天馬の知るAは、どんな奴だったんだ？」
自分にとってどんな存在だったのか。
天馬があんなに必死になるほど、大切な──忘れてはならない存在、だったのかもしれないと。
「口数はそんなに多くないですけど、真っ直ぐで、なんて言うかあったかい人です。特にサッカーやってる時に見せる笑顔は、すごく楽しそうでした」
──笑顔。
「A先輩の歴史を取り戻してもう一度会えば、きっと思い出せます」
神童はAの、常に何かを憂えているような顔に笑みが浮かぶ様を想像してみた。
霧の中にあるように、それははっきりとした像を結んではくれない。
「まあどのみちあれじゃあ、本人からアーティファクトを貰うのは無理そうだな」
「え──あ、そうだった！ 何やってるんだ俺……」
天馬は自分の失態を悔いたが、時が戻ることはなかった。
一方、神童の頭の中には、一人の女性の顔が浮かんでいた。
しばらく迷ったが、やがて腹を決めて顔を上げる。
「手が、ないわけじゃない」
＊
──ずっと、ずっと。死に物狂いでやってきた。
五年前、神童の才能に打ちひしがれて一度は弓を置いたけれど……どうにか自力で立ち上がった。
何を置いてもバイオリンにかじりついて、練習し続けた。時には食事することも忘れて弾き続け、両親や姉に心配された。
努力は実った。もう私の音色は『神童の演奏に付随する雑音』と評されることはなくなった。それだけじゃなくて、ジュニアコンクールでぶっちぎり一位を獲ることもできた。
──だけど、何故だろう。
自分で切り拓いた道を歩んでいるはずなのに、心に大きな穴が空いてしまっているような気がする。
私はバイオリンしか知らない。だからこんな空虚な気持ちを味わうなんてこと、ないはずなのに。
弾けるような喜びや楽しさを、もう何年も味わっていない。
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年11月2日 10時
