菩提樹下の逍遥《四》【文IスIト】

生き残りの地獄《上》 ページ18

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伝平は、地元問屋の跡取りだった。

父方の実家は呉服屋で、日本橋に屋敷を構える大店の若旦那。誰もがあこがれる下町っ子であるものの、イナセというには決定的にかけたものがある。

下町言葉を棄てて久しいのだ。

というのも日本橋なまりの江戸弁は「商人言葉」の俗称で、旧幕臣の士族―――ようは武家階級の人間にしいたげられていた。

なまりの中でも、武家の生まれが多い士官の人間たちには好まれない。

士官学校に通う伝平は、上官からせっつかれる前に美しい標準語とビジネススマイルをたずさえて、東京人らしく振舞っているのだった。

こうした流れは後をたたず、日本橋や浅草の下町言葉は急速に失われ、ざんぎり頭や洋靴の雑踏にまぎれていった。


ところが伝平の通う古武術道場には文明開化の風が吹かない。

「安楽死の殺人剣」を教える唯一の流派、緒方式の古武術が伝授されるのは、士官学校に通う学生の中でも一部の俊才に限られる。

商家の生まれと馬鹿にされるのを疎んだ伝平の努力は実を結び、由緒正しい殺しの技を学ぶ栄誉を授かったが、問題は山奥の道場の門を叩いてからも続いた。

緒方家は旧家といえど、医者の家だから古い慣習にこだわらない柔軟さはそなえている。
しかし方言が不便で恥ずかしいものとはすこしも考えてはいない。

偏見をもたず郷土愛があるといえばきこえが良いが、彼等の場合「世間の目を気にしなくても生きていける」大きな家だったというのが正解だ。

伝平は、耳に馴染んだ江戸弁をなつかしいとは少しも思わなかった。

むしろ、田舎くさい江戸弁を大声で話す緒方という家を、毛虫のごとく嫌ってすらいた。

方言からは隠しきれない権力のにおいがしたのである。


このような事情が二人の少年の間を隔てていた。

都会人の伝平と、規律と因習にとらわれた緒方の跡継ぎ・薫とでは、話があいようもない。

上級生と下級生が同室になる校則の士官学校で、入学した頃から同じ部屋で育った関係でありながら、彼等の挨拶は遭うたびに温度が低くなっていく。

薫はいつも、伝平の冷ややかな挨拶を薄笑みのひとつでかえし、何も見なかったかのように横を素通りするのがならいである。


二人の関係には幼馴染などとよべるほどの温度もなく、互いを知るための会話もなかった。


この冷戦状態であっても彼らを繋いでいたのは、芝居であった。

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