赤くてナサニエル ページ5
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辞書を思わせる厚さの黒い本の上に、文庫本を重ねて開いたドアを見つめた。顔を見せた癖っ毛に微笑んで、またいつもの話。
あの日、モデルである彼は入院していたという彼のマネージャーを探して部屋に入ってきたのだという。もう退院したというその人は、後に菓子折りを持って私の個室を訪れた。勿論そこには彼もいて、今もこうして定期的に病室に訪ねてきてくれる。それは義務ではないのに、こんなこと何でもないとでも言う風に話をしてくれる。
知ったことは、彼は私立夢ノ咲学院の生徒であるということ、そしてモデル業はお休みをしているということ。
一つ不思議なのは雑誌で見た完璧な笑顔はそこに存在せず、時折暗い表情を見せることくらいだ。踏み込んではいけないような気がして知らないふりをするしかないが、時々会話に出す 友の名 に関係があるのではないかと勘繰った。勿論彼に直接尋ねるなんて言語道断だ。
だから、一番近くて一番遠かった。手を伸ばせば届きそうなのは虚像で、本当は鬱になるほどに遠い距離。ひた隠しにしてきたことは数多く、私についても例外ではない。
まだ病名も明かしていない私の元に、何故彼はいつも訪れてくれるのだろうか。
他人行儀に罪悪感、それでもこの関係が心地よくて、カルピスと同化していた氷が音を立てて崩れた。
「 暑い 」
「 外の方が暑いよぉ 」
「 夢があるんだ 」
「 何？ 」
「 海が見たい 」
「 ちっちゃい夢 」
「 いいでしょう？ 」
「 あんたらしくて、いいんじゃない 」
ちいさなちいさな夢は、ちいさなちいさな世界の片隅で弾けた。写真でしか見たことのない海。幼い頃から病室に篭りっきりだった私の、世界一大きな夢。丁度港には外国船が停泊していると聞いて、その蒸気とか、大きな船体、さざめく海を想像することはしばしば。
彼の通う学校の近くには海があるらしい。海に面した地域だと言っても比較的内陸部にあるこの病室で、その青さに身を焦がした。
ーー自分の足で行くことは無理だとしても、いつか死ぬまでに、その青に直接触れてみたかった。日焼けだってしてみたい。夏が終わるまでに。
ジーワジーワ、蝉の声がアスファルトに染み込んでいく。外に出たことがないわけではないから、あの硬さは知っていた。硝子に阻まれることもなく聞く蝉の音はどんなだろうか。肌で感じる暑さは、痛みを伴うのだろうか。
迫り来る猛暑に、弱い臓器を刺激する潮風に耐えられたのなら、それはどんな眺めだろうか。
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作者名：ねむい | 作者ホームページ：
作成日時：2018年4月25日 5時
