其の弍（清八視点） ページ2
「私もお断りするつもりでいますから、安心して下さい」
濡れた紙に墨が滲んで広がってゆくように、じわりじわりと胸が痛む。学のない私はこの妙な胸痛を何と呼ぶのかは知らないが、Aさんの一言がきっかけだったのは明白だ。
何故だか、親方に断りを入れるAさんを追いかけねばならないと感じた。しかし追いかけたところで何を話せばいいのか分からない。「傷付けてしまっていたらすみません」？「やっぱり再考しましょう」？どれも違う気がする。
親方の前で涙を流すAさんを、陰からただじっと眺めるしかなかった。
親方と別れたAさんは、厩舎へ入っていった。私も厩舎の外から音だけを聞いた。
「コレステロール、話聞いてくれる…？」
「ブヒ？」
「私ね、あれだけ良くして下さった加藤村の人達の期待を大きく裏切ってしまったんだぁ…」
「ブヒ…」
「でもね、縁談を受ける訳にもいかなかったの。私はこの時代の人間じゃないから、いつ消えてしまうかも分からないし、何より清八さんは私と一緒になる気はないんだって」
(……え？)
今、この時代の人間じゃないと言った？誰が？Aさんが？過去か未来からやって来たって事…！？
「フスー！！」
「あはは。そうね、私も馬だったらコレステロールのこと、好きになったかも。
……明日からどんな顔して皆さんと過ごせばいいんだろう…。気まずい。私もう加藤村を出たいよ」
ずきりと胸の鈍痛が強まった。私が断らせたせいで、せっかくこの村に出来たAさんの居場所を奪ってしまったのだろうか。
「じゃあ、今すぐ出るかい？」
「！？」
突然、厩舎から男の声がした。さっきまで気配はなかった。馬も大人しくしていたし、厩舎に近付く足音もなかった。第一、村人は全員帰って来ていたから村の門は閉まっていた筈で──
「……雑渡、昆奈門…」
「おや、私の名を正しく覚えていてくれて嬉しいよ。何故だか呼び間違える人が多くてね」
「…あなたの城は戦で忙しい筈では？」
「表向きはまだ睨み合いをしている事になっているが、内々にはひと段落ついたんでね。たまたま様子を見に来てみれば、ここにはAちゃんを泣かせる男がいるようだ」
「違います。私がお世話になりっぱなしでひとつも恩返しできない事を嘆いて勝手に泣いてしまっただけです」
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作者名：玉虫厨子 | 作成日時：2023年10月11日 16時
