三話 ページ4
「すみません、もうだいぶ濡れちゃってるので、早く帰ってシャワー浴びたくて」
困ったように笑って返せば、おばちゃんはおとなしくタオルを引っ込めた。
頬に手を当てて、あらそう? それなら仕方ないわね、なんて心底残念そうに言う。やたらと伶香の服を気にしているのが気になるが、引き下がってくれるのなら幸いだ。
「風邪をひかないようにね、走って帰るのよ?」
まるで子供に言い聞かせるような言いようである。
知り合いだったっけ、なんて錯覚しそうになったが、伶香の知り合いにも、彼女の母の知り合いにも、今目の前にいるおばちゃんらしき人物は見当たらない。やはり赤の他人だ。
「ありがとうございます」
軽くお辞儀をして、伶香は軒先から飛び出した。走って帰るのよ、なんて言われてしまっては走らないわけにはいかない。初めはそれなりの全速力で、人がいるところでは申し訳程度に歩調を緩め、とりあえず走る。
おばちゃんが視認できないほどに離れたと判断したら、すぐにゆったりとした歩調へ戻した。
初めにも言ったが、遅かれ早かれ全身びしょ濡れになるのである。既にスカートからも水が滴りそうになっていた。
伶香のスカートはちょうど太ももの真ん中あたりの長さだが、こういう濡れたときは長い方が不快なのか、短い方が不快なのか、どちらなのだろう。
角を曲がって、看板が色あせた本屋の前に出た。ちょうど機械的な音と共に自動扉が開く。伶香に反応してしまったのかと思ったが、違った。人が出てきたのだ。
「え、あの、ちょっ」
本屋から出てきた人物の、高めで、しかし男だとわかる声が動揺で揺れた。気にせず通り過ぎようとした伶香の腕をとっさに掴む。
ばさ、と音がして、雨粒が遮られた。
伶香が振り向けば、驚きで見開かれた大きな瞳と目が合った。その顔には、脊髄反射で傘を差しかけてしまった、と書いてある。
同じ学校の、男子の制服。
雨で少しだけ広がった腰までの茶髪はひとつに束ねられていて、染めているわけではないのだろう、つややかな光沢を放っている。長いまつ毛で縁取られた目と筋の通った鼻、唇の薄い口は、びっくりするほど完璧な配置でそのきめ細かい肌を有する顔に収まっていた。
伶香が軽く見上げなければいけないほど高い身長と、綺麗な顔に見合わない体格。半袖のワイシャツから覗いている腕には、ほれぼれするほど綺麗に筋肉がついている。
「二ノ宮さん」
柔らかい声だった。
3人がお気に入り
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:翡翠月 | 作者ホームページ:https://mobile.twitter.com/hisuigetsu
作成日時:2022年3月4日 12時