【天月】世界に音を降らせる。/鎖座波 ページ31
歌が歌えないの
あの日、あの時。
彼女は確かにこう言った。声が出るのに、歌は歌えない。
歌おうとしても、喉から出て来るのは掠れた息が苦しそうに少しだけ空気を揺らす。たったそれだけ。
その息は実体の無い音楽となり、誰にも見えない、聞こえない空気に成り果てる。
「生きる」ことを「歌う」こととしていた彼女にとってそれは死と同等のものだった。
彼女の世界から全ての酸素が奪い取られたような。生きる活力を吸い取られてしまったような。明日が見えない真っ暗な道をただひたすらに走っているような。
あの時の顔はそんな顔をしていた。両親を目の前で殺されてしまったかのような絶望に満ちた表情。
そして、それと同じく自分も酷く絶望したいたものだ。彼女と共に歌うことが「音楽」で、「生きる」ことだった。
「つーきー。あーまーつーきー。」
「えっ、あっあれ!?ごめん!!全然聞いてなかった!」
かれこれ二十年以上の付き合いにもなる目の前の彼女が俺の名前を呼んでいるのに気が付かなかった。
こうして、彼女は歌が歌えなくとも生きてはいるが、何だか光が無かった。
「今度のライブでさ、私をギター&ツインボーカルで参加させてくれない?」
「……え?」
一瞬彼女が言った言葉の意味が理解できなかった。
ギタリストとして参加してくれるのは構わない。好都合だった。長年一緒に居る彼女に頼むのは心の底から安心できる。
だが、“ツインボーカル”と言う単語に戸惑いを隠せなかった。
歌うことができない彼女がツインボーカルとして、しかもライブに出演させてくれと言っているのだ。
彼女と長年一緒にいる、彼女の苦しみを誰よりも理解している身としては彼女のその願いを叶えてあげたい。
だが、彼女の願いはあくまで願いなのであって、叶うことは限りなくゼロに近い願いなのだ。
「無理なこと言ってるのは分かってるの。でも、一度だけ。あと一度だけ一緒にステージに立ちたい。諦めが着いてないから。もし、これで歌えなかったら…」
___音楽を、辞める。
「音楽を辞める」すわ「生きることを辞める」と言うこと。
童話に出て来る人魚姫は足を手に入れる代わりに、人々を魅了する「声」そのものを失った。
だがAは?
何の引き換えもなしに「生きる」ことを「歌」を奪われた。
生きる渇望を失って、何も得られてはいない。
「…賭けをしよう。A」
賭けも賭け。ただの賭けではない。
「賭け?」
「うん。Aが歌えたら何でもどんな言うことでも聞いてあげる。だけど、Aが歌えなかったら」
_____俺も音楽を辞める。
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ほさと - とても感動しました。占ツクの歌い手様を扱った作品には珍しくしっかりと小説になっていて、一介の読書好きとしても嬉しかったです。どの作品もとても美しい比喩があり、音読したい作品だなぁと思いました。 (2019年7月14日 20時) (レス) id: fdc2472f82 (このIDを非表示/違反報告)
弓乃 - 皆様の素晴らしい文章に心が震えました。ありがとうございます。執筆お疲れ様でした。これからも頑張って下さい。 (2019年6月17日 16時) (レス) id: d99258de7b (このIDを非表示/違反報告)
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