番外編:その時私は ページ18
ちょうど、あの人が亡くなってから1ヶ月くらい経った頃だった。
1ヶ月前の今日、いつも通りあの人を見送ったというのに、今はもうどこにもいない。
そんな事実が信じられなくて、日課のように空を見上げてあの人を探す。
今日は晴れていて、綺麗な青空のはずなのに、どうしてか濁って見える。
「お嬢さん。」
初めは私のことだとは思わなかった。
お嬢さんなんて歳では…ギリギリあるかもしれないけれど、結婚してからは奥さんと呼ばれることが多かったから。
驚いて振り返ると、端正な顔立ちをした男性がいた。
編笠を片手であげた腕は顔に見合わず筋肉質で、骨張っていて。
真っ黒で綺麗な長髪が印象的だった。
「そろそろ陽が落ちる。女一人では危ない、早く帰られよ。」
そう言われて初めて赤くなった空に気がついた。
暗くなっていたのなら濁った青空も頷ける。
帰らなくては、そう思うのに、口から溢れたのは真逆の言葉だった。
「まだ、帰りたくないんです。」
久方ぶりに他人とまともに話したからか、取り繕うこともなく本音がポロリと漏れてしまったけれど、どうでも良かった。
もしこの人が悪い人だったなら、なんてことすらもどうでも良くて、むしろ、
この人に汚されるのも悪くないとすら思ってしまった。
「…若い女がそんなことを言うものではない。俺が暴漢だったらどうする。」
見ず知らずの女にそんな声をかけるような優しい人が、自分が暴漢かもしれないなんて、よく言う。
でもそんな人を困らせてしまったのは申し訳なく思った。
「人と話したいんです。私の話し相手になってくれませんか。」
あの人のいない静かな家に、どうしても帰りたくない。
帰ればまた現実が襲ってくる。
私はまだ空を眺めて、誰かと話していたい。
そんな気持ちと裏腹に、優しい人は今日はもう遅いから明日にと言った。
本当は今が良かったから少し残念だったはずなのに、自分の声は思ったより弾んでいた。
「ああ、約束だ。」
約束も、久しぶりにした。
優しく細められた瞳からは温かさを感じて、自然と私の顔も緩んだ。
他人から与えられる温もりも、自分の顔が緩むのも、久々だと、後から気づいた。
明日、本当に来てくれるかどうかはわからない。
でもこの人なら約束を守ってくれるんじゃないかと期待した。
こんなにも心が弾むのは、きっと久しぶりに人に優しくされたからだ。
この日見上げた鮮やかな茜色の空が、忘れられない。
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作者名:たいる | 作成日時:2022年1月25日 15時