弍 ページ19
後宮をでて一月、麗しき貴人が花街に現れたのは記憶に新しい。
物好きな宦官は、冗談めいて言ったAの言葉を鵜呑みにしてくれた。
銀にして二千万というとんでもない額の金子をやり手婆の前に広げて見せ、手土産には冬虫夏草という気の配りようである。
契約書に判を押すのにはもちろんやり手婆も多少迷ったようだが、悩み抜いて結局金子に目がくらみ、判を押した。
よって、Aはまたやんごとなき場所にてお勤めをすることとなる。
おやじどのを置いたまままた住み込みで働くことになるのは、少々気が引けるが、契約書を見る限り以前よりもずいぶん規則がゆるくなっているようだ。
まあ、前のように行方不明の状態というわけではないので、おやじどのは「好きにしなさい」と柔和な笑みを浮かべていた。
だが、契約書を見た際、一瞬表情を曇らせてAを見たのはどういうことだろうか。
まあ世の中、深く考えても結局無意味なことは多い、考えるだけ無駄である。
「ずいぶん貰ったねえ」
おっとりとした口調のおやじどのは、大鍋で薬草を煮ながら言った。
隙間風が入るあばら家は、竈に火をつけていてもまだまだ寒く、Aとおやじどのは服を何枚も重ねて着ている。
おやじどのが膝をしきりに擦るところを見ると、昔肉刑を受けたところが痛んでいるのだろう。
「あんまり荷物持っていけないわ」
Aは、すでに準備をしていた荷物を見る。
すり鉢に薬研、薬草の種類を書き留めた帳面に必要最低限の衣服や下着。
(すり鉢も薬研も絶対必要だし、帳面も絶対いる。だけど、これ以上、下着を減らすのは)
Aが眉間にしわをよせていると、おやじどのが鍋を竈から下ろしてAに近づいてきた。
「Aや、たぶんこれは持っていってはいけないよ」
調合道具を風呂敷から外されてAはおやじどのを怪訝な目で見る。
「医官でもないのにこんなものを持っていけば、毒殺でもしているのかと疑われる可能性があるからね。
...ほら、そんな顔しない。あんだけお前が身請けって大騒ぎだったんだから、今更取りやめは無理だよ」
「うそ…」
Aは力なく土間に座り込んだ。
「はいはい、早く準備して寝なさい。明日は試験だろ?」
「……わかった」
Aはしぶしぶと調合道具を軋んだ棚に入れると、貰った餞別の中でいくつか使えそうなものを風呂敷の中に入れた。
紅の入った貝殻とおしろいを見て目を細めたが、結局どちらも風呂敷に入れた。
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作者名:泉 | 作成日時:2024年1月27日 22時