108 ※『』は手話での会話を表します ページ8
「元気だった？」
私の問いかけに、佐倉くんがうなずいた。
「よかった」と安堵の声が漏れた。
佐倉くんもスマホで「Aも元気そうでよかった」と入力して見せた。
「うん。元気」
私の心全体に、温かいものがふわっと広がった。
レッスンが終わった後、先生は私たちに気を遣ってかさっさと部屋を出て行った。
先週と同様にすぐ帰ろうとした佐倉くんを、今度は部屋を出る前に呼び止めた。
「どこか行かない？」と書いた紙を、佐倉くんの目の前に示して、反応をうかがった。
急いで帰ろうとした割りにはあっさり、首を縦に振ってくれた。
近くにあるカフェに入って、二人で向かい合わせになって座った。
飲み物を注文した後、佐倉くんがさっきみたいにスマホを出して私の前に置いた。
私は首を振って、それを佐倉くんの前に押し戻した。
「何で？」というような顔とともに、もう一度スマホが目の前に差し出された。
さっきよりもたくさん首を横に振ってスマホを元に戻すと、佐倉くんが私の顔を見つめた。
『私の、名前は……』
今までのレッスンでやったことを思い出しながら、手を動かした。
佐倉くんの表情は、変わらなかった。
「あれっ、伝わってないかな……」
ちょっと不安になっていると、佐倉くんも『私の名前は佐倉想です』とやってくれた。
それも、私に分かりやすいようにゆっくり、はっきりと。
「うん。よかった、通じてた」
『覚えたの？』
『覚えたの。ねえ、見てて』
動きを考えながら、分かりやすいようにゆっくりと手指の形を変えていった。
『私の年齢は二十六歳です』
『知ってる』
『私の誕生日は四月二十八日です』
『知ってる』
『私の家族は三人で、母と私と弟です』
『知ってる』
「だよね。知ってるよね」
お互いに笑いあった。
「あのさ……何で？」
人差し指で耳を指さして、そう聞いた。
佐倉くんが、私と同じ仕草をした。
「耳？」と聞かれているような気がした私は、軽くうなずいた。
スマホのメモ帳に打った長めの文章を、見せてくれた。
「病気。高校卒業して聞こえにくくなって、3年くらい前にほとんど聞こえなくなった」
感覚が麻痺しているのか時間の経過のせいなのか、取り乱したりはしなかった。
でも、言いたいことがあった。
「あのとき……ああ、分かんないや。ちょっと待ってて、ごめん。次会う時までにペラペラになっとくから」
自分のスマホにもインストールした「UDトーク」というアプリを開いて二人の間に置いた。
私、ほんとに何も分かってなかったんだな。
佐倉くんの横にずっといたはずなのに、何も分かってあげられなかった。
もっと早く気づけていれば……。
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 580人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
