彼と漫画家の話 -side.M- ページ34
とりあえず家を出たけど、どこへ行ったのか見当もつかない。
闇雲に走っても見つかる気がしない。
どこからか、風にのって磯の香りがふわりとただよって来る。
そういえば前任の担当者からもらった資料に、釣りが好きって書いてあった。
俺は海に向かって走り出した。
ざざん、ざざーん。
波の音が響くシーズンオフの海は閑散としていて。
ぽつん、とテトラポットの上で胡坐をかいて座っている先生はすぐに目に入った。
俺が近づいて行くと、先生はふにゃんと笑った。
「あ、見つかっちゃった」
「先生釣りがお好きだって聞いたので」
「いいカンしてるね。足もはやそうだし。
松本くんは手ごわそうだ」
先生は穏やかな顔で、海を見ていた。
俺も隣に腰をおろす。
「…先生の望んでいることは何ですか？」
「のぞんでいること？」
「俺は編集者として先生が気持ちよく漫画を描ける、お手伝いがしたいんです」
先生はちょっと驚いたように俺を見たあと、また視線を海の遥か遠くに戻して、しばらく考えていた。
「なんも」
「え？」
「おれ、なんもいらねんだ。
目ん玉が飛び出るような大金も、
歯の浮くような賞賛も。
地位も名誉もなんにもいらね」
「……」
「好きな漫画描いて食べていけたらそれでいいの」
その言葉を聞いて。
自分の描く漫画がたくさんの人を動かしていることを、この人はちゃんと分かっている、と思った。
好きなものをただ好きなように描き続ける訳にいかないことを、分かっているんだ。
先生の抱える孤独と、途方もないプレッシャーを垣間見た気がした。
「…先生」
「ん？」
「逃げていいですよ」
「へ？」
「逃げたくなったら、逃げて下さい。
その代わり、俺は絶対あなたを見つけます」
「……」
「どこにいても必ず。あなたを見つけます」
ぶはっ、って先生が吹き出した。
「俺はまじめに言ってますよ」
「ふふ。わかってるよ。きみ、変わってんね」
無邪気に笑ったまま、すくっと立ち上がると。
「そんじゃあ」
軽やかに走り出す。
「お手並み、拝見」
「あ、くっそ！ずりーよ！」
俺の仕事は、編集者として
一緒に作品を作ること。
そして、追いかけること。
どこまでも追いかけて
天才で孤独な漫画家を
決して一人にしないこと。
「彼と漫画家の話」ーおわりー
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作者名：つむ
| 作者ホームページ：
作成日時：2014年12月16日 18時
