穏やかな香り ページ1
音って何だろう。
たまに、漠然とそう思う時がある。
私の耳は、生まれ付き聞こえなかった。
母親か父親どちらかが難聴という事でもなく、遺伝性のものでは無いのは確実。
きっと産まれるまでの過程で何かしら不具合が起きたのであろう。
そんな、至って健康体の両親から産まれた私が忌み嫌われ無いわけがなく、愛なんてものは産まれてこの方貰ったことが無い。
私の後に産まれた三歳下の妹は健康そのもので、愛はそちらに全て向けられたのだから。
私は幼心ながら、それが当然なのだと悟った。
だって自分は耳が聞こえない。
それが普通じゃ無いのだから仕方が無い。
でも…だからこそ、こんな思い切った行動が出来たのかもしれないと、村を駆けながら思った。
夜は嫌いだ。
何故ならば、第一に頼る視覚での情報が夜間では酷く鈍る。
けれど、今私が感じているこのえも言われぬ高揚感は、何ものにも変え難い。
『あぁ、やってしまった』
随分と上がった呼吸。一度立ち止まり、額に浮いた汗を拭いながら後ろを振り返る。
もう見えもしない、自分の家。
あの家族はきっと、追いかけてなんて来ない。
私の居場所なんて、元から無いのだから。
何とも清々しい気持ちだ。何物にも捕らわれないとは、こんなに気持ちのいいものなのか。
頬を撫ぜる生温い風を肺いっぱい吸い込み、一気に吐き出す。
あそこでは常に感じていた息苦しさなんて、微塵も感じない。
行く宛てなんて無いけれど…新しい未来を自らの手で切り開くんだ。
覚悟を決め、今一度歩き出したその瞬間。
突然肩に触れた手が私の体を引き寄せる。そして、ぐらりと揺れる視界。
よろけた体を受け止める様にして抱かれたと思うのも束の間、ふわりと穏やかな香りが鼻腔を擽る。
慌てて後ろを振り向いた。匂いが違うから家族ではない。なら、誰が──。
月明かりの下、照らされた人の影。
やや明るい黄色の短髪が、視界の中で揺れる。
『逃げるよ』
口の動きから、そう言っているのだと分かる。
何、急に?逃げるって何から?
それよりも、貴方は誰?
泡のように浮かぶ疑問。
しかし、それを聞くよりも前に、目の縁に涙を溜めた彼は私の手を引いて走り出していた。
──この人が私の人生を変えるなど、今の私には思ってもみない事である。
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作者名:*yuki | 作成日時:2020年4月22日 14時