・ ページ29
朝食をとったその後、開店前の掃除に取り掛かる前の、ちょっとの時間。
紅茶を淹れるためのお湯を沸かしながら、ぼんやりと白紙の文学書を眺めていた。
手に取って開くと、一ページ目にたった一文書かれている。
何度も、何度も読み返し、どれほど恨んだかわからない一文。
『新しい研究所に研究員が入ると、そこには一人の人間が立っていた』
「はぁ……」
目を閉じれば、あの日の、あのときの光景が、ありありと浮かび上がる。
白い部屋。ガラス窓の向こう。今でも思い出されるその風景。
真新しい、白い壁、白い天井、白い床の何もない部屋。曇り一つないきれいなガラス窓。
あの場所は、私を呼び出すためだけに作られた小さな研究所だった。
今は、民間企業に委託され、私の存在は秘匿され、否定され続けている。
「もともと存在してなかった……か」
昨日、散々彼女に云われた言葉をつぶやく。
私の物語は、この、たった一文で始まった。
誰も知らない、誰も見ていない部屋の中、いつ、どこから来たのかも書かれていない。
性別も、年齢すらも。
何故、彼女が選ばれ、私が生まれたのかすら、書かれていない。
たった一文、されど一文。
私の一言と同じように、シュレディンガーの猫が、箱を開けるまでは生きているのか、死んでいるのかわからないように。
ドアを開けるまでは、そこに人がいるのか、いないのかわからない。
そっと首輪に触れる。
私はきっと、ずっと知っていたのだろう。
帰る方法も、どうすれば、私の体を手に入れることができるのかも。
でも、それに気づきたくはなかった。
もし失敗したら。もし私が消えてしまったら。
それが怖かった。
散々、彼女に体を返すと話しておきながら、ずっとずっと、自分が消えることが怖かった。
彼女はそれを見抜いていた。
だから、私に『自由に生きろ』と、『私のことなんて気にしなくていいから、好きに生きろ』と、『あんたが幸せになれるなら、私の体は上げる』と、彼女なりの言葉で、精いっぱい伝えてきた。
私がとっくの昔に、帰る方法に気づいていたことに、気づいていないふりをして。
立ち上がって、まだ沸いていないやかんの火を止める。
「これじゃ、お互い、人のことを云えないね」
『だって同一人物じゃん』
楽しそうな声が頭の中に響くなか、私は見えない彼女に笑い返しながら、量りとボウルを取り出した。
28人がお気に入り
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:あき | 作者ホームページ:http://http://uranai.nosv.org/u.php/hp/fallHP/
作成日時:2021年4月24日 1時