episode 56 ページ12
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授業を一緒に受けていた友人と別れ、開けた交差点で信号を待っている大衆に紛れ込む。大きな交差点はそれだけ信号も長いので、周りの人たちと同じようにスマホを取り出した。
小さな嘘をついたあの日から一週間と少し経つ。
坂田さんも忙しいようで毎晩とはいかなくなり、時々会うくらいになっている。私に時間を割きすぎたのだと「志麻」さんが教えてくれた。勝手に言うなと電話の向こうで怒っていた坂田さんを思い出して笑みが零れる。
楽しい時間を思うと温かい気持ちになれる。
「……坂田さん」
緑の上から赤を塗るように、呟く。
『速報です。日本出身のハリウッド俳優「うらたぬき」さんが、アメリカへの帰国を発表しました』
突如雑踏に紛れてなだれ込んできた音声に意識すべてを攫われた。
見上げた先の街頭ビジョンには、まさに今考えていた人の姿が映っている。
「え……!?」
『うらたぬきさんは日本国内でのスケジュールを全て終え、近日中にアメリカへ戻るとのことです』
思考が追いつかない。いつか帰ることは知っていたけれど、近いうちに帰るなんてうらたさんは何も。
……私って、その程度の存在だった?
いや、そうじゃん。私なんてその程度の存在でしかない。彼は国を跨ぐだけでこうしてニュースになる有名人で、私はそのニュースを眺める大衆の一部、注目されることのないただの「人」。なのにどうして裏切られたような気持ちが拭いきれないのだろう。
――うらたさんが悪い。
何度もラインで会う約束を強引に取り付けてきて、失恋を忘れるほどあちこち連れ回した。離れようとしたところを引き止めて、強く求めるようにキスしてきた。風邪で弱った体を預けてきて、頼ってくれた。まふまふさんに煽られてすぐ、現場を抜けてまで会いに来てくれた。
少し思い出そうとしただけでこんなにも出てくる。遥か遠いあなたをこんなに近くに感じさせる。
うらたさんが悪い。叶わないのに一時でも期待させて、ひどい人だ。
ひどいひと……。
「……っ」
こみ上がってくるものを押しとどめ、小さく顎を上げた。
信号が青に変わる。けれど私は渡れなくて、私を避けて過ぎていく歩行者に申し訳なさが募った。
「泣くほど好き?」
ふと耳に入ったそれは、モニターを通した音声では決してない肉声で。
まるで身近な人に発されるような砕けた調子。
「あー、や、違くて……泣きはしねえけど、俺の方。会いに来た」
もうこらえなくていい涙が溢れた。
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む-む(プロフ) - 更新ありがとうございます!いつも楽しく読ませてもらってます…!今後も応援しております! (2月5日 22時) (レス) id: e45905575c (このIDを非表示/違反報告)
蟹汁(プロフ) - 最新話とても楽しみにしておりました…!更新嬉しいです! (1月9日 13時) (レス) @page19 id: 1d876901a1 (このIDを非表示/違反報告)
yume(プロフ) - すごくドキドキする楽しい作品です!更新楽しみにしてますー! (10月28日 13時) (レス) @page18 id: af9fca39eb (このIDを非表示/違反報告)
きゆか(プロフ) - 更新楽しみにしてます…!いつか続きみたいなって思ってます…!! (2022年10月31日 0時) (レス) @page18 id: 1051f9e52c (このIDを非表示/違反報告)
みこ - 更新頑張ってください!大好きなお話です! (2022年10月22日 16時) (レス) @page18 id: 2aca8cdc1f (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:ノア | 作成日時:2020年8月27日 14時