愛執の呪い (ページ9)

今日:22 hit、昨日:51 hit、合計:18,654 hit

9 ページ9

お酒を飲んでいないのに、八重田はまるで酔っているかのように項垂れ続ける。それだけ近本への失恋が辛いのだろうか。けれどもう、彼が結婚してかなりの年数が経っているはずだ。

「…チカちゃんに好きになってもらう為に、小さい頃は、髪伸ばしてた。女の子になれへんかなって。なれへんって分かったら、次はずっと笑顔でおった。」

「色々やったんだ。」

「うん、いっぱいやった。したら、あかんのに目ェ付けられもうた。」

そっと顔を覗き込んでみれば、八重田の瞳がふるふると小さく揺れていた。
きゅっと口を噤み、これから先の事を話すか悩んでいるような姿に、「無理しないで。」と声を掛ける。手を伸ばし、テーブルの上に置かれた八重田の手に重ねてみた。
必死に、冷たい手に自身の体温を分けるかのように。

「……俺、チカちゃんの為に必死に、やってたのに。近所の、団地のあの、おっさんに。」

「…A。いいよ、もう。思い出したくないやろ。いいよ、言わなくて。」

「チカちゃんが言うみたいに、なんでも出来るとか、愛嬌があるとか、そんな。ただ、ただ取り繕ってるだけやのに。」

厄介な恋心を抱くばかりに、厄介な物事に巻き込まれ、大好きな彼は再会する際にはもう既婚者で。
それにも関わらず、逃れられない愛執に囚われ、彼には後戻り出来ない程に惑溺してしまっている。

「嫌われてんの、分かってんのに、ッ、」

次第に呼吸が震え、不規則になった。かと思えば、重ねていた木浪の手の甲に温かい雫が落ちていく。

「…チカも、本当はAの事好きかも。」

「……あんな、避けられてんのに。」

「照れ隠しだったりして。」

涙で濡れた顔を上げ、木浪を見やる。
彼は相変わらず優しく笑っており、面倒な八重田の相手も嫌がる素振り無く、引き受けてくれている。
「頑張ったねー、えらい。」と、1つ歳上な彼は、幼い子を褒めるように頭を撫でた。ただそれだけの言葉と行動に、八重田の脆くなった涙腺は決壊した。
騒がしい焼肉店内に消える泣き声は、今まで以上に悲しいものだった。

「ご馳走様です。ありがとうございました、話まで聞いてくれて。」

この日の会計は全て木浪が持った。可愛い後輩への気遣いだろう。彼は満足そうに笑って、八重田の背中をトンと軽く叩く。

「チカに聞いておこうか。Aの事、どう思ってるか。」

「いやあ、そんな。」

「案外、いいのが聞けるかも。」

深月縹の世界に溶ける彼との数時間は忘れられない想い出となった。