月夜の港に【文スト】

　　　ゝ　　　 ページ13

「いや、私は女将さんにケーキを届けるという御役目があったのですよ。その旅館の女将さんは首領の馴染みの方ですからね……どうやら首領は事務員の逃げ先も大体の目星はつけていらしたようですわ」

「成る程、逃げた旅館が此方の味方ってわけか。運が悪い」

中也さんはそう言って笑った。

「探偵社の新しい拠点は見つかりましたか？」

「旧晩講堂だ。彼処へは鉄道の廃線路を辿って入るしかないらしい。探偵社が隠れるにはぴったりだろうな」

中也さんは臙脂色のローテーブルに地図を出して来てそこを指し示した。

明日はそこへ行くと中也さんは言ってまた背もたれに小柄な身体を預ける。

地図を出すのは中也さんだったが、片付けるのはいつもAである。殿方は大抵出すことはしても仕舞うということはしない。用の済んだ地図は忘れられてしまうのだ。


「あ、」
中也さんがむくりと身体を起こした。布擦れの音がしたので振り返る前に分かる。

「そういや梶井が手前のこと探してたぞ。仕事の用じゃねえとは言っていたが……」

「そうですか。ありがとうございます」

「なんだかんだで仲いいんだな」

「まあ、挨拶が少々凝っているくらいには」

とAが笑うとアレは意味がわからんと呆れたように言ってまた椅子に凭れる。

Aは梶井さんのところへ行ってきますと言って執務室を後にした。

梶井さんの実験室は地下にある。エレベーターで1階まで降りた後、エレベーターを乗り換えて地下へ降りる必要がある。

呼び鈴を鳴らすと返事があった。笹原ですと答えながら入って行くのはいつものことであり、また久しぶりでもあった。

先ずAの目に入ってきたのは檸檬の黄色。中央にある大きな長方形の机には山のように檸檬――の形の爆弾――が積まれていた。

まるで檸檬の専門店だ。物騒な檸檬である。

「やあ、はるちゃん、逢いたかったよ。わざわざ来てくれたのかい」

「笹原Aです」

世界が全部紫に見えそうなゴーグルに、実験中に燃えないのかと心配になりそうな黄緑色の長いマフラー。使い込んでヨレヨレになった白衣の襟には女子高生でもつけなさそうな缶バッジが付いている。今どきバッテンピンはもう古いか。

それに足元は下駄だ。薬品が落ちたら足に穴が開きかねない。
果たして彼の目に檸檬は何色に移っているのだろうかと幼い頃から疑問に思っているAである。



「おっと此れは失礼、はるちゃんは偽名だったね」

ここで彼は漸く手を止めた。

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