唇とマーマレード 5

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オージービーフも彼の手にかかると、和牛と変わらないくらいのレベルになった。

「引越し先が決まったら、Aのご両親に会いに行こう」

食事中、彼はまた思い詰めた顔をしてそんなことを言い出す。

「別にいいよ、挨拶とか」

「そういうのはちゃんとしておかないと
それに、そっちの籍に入れてもらう話もしておきたいし」

そう言えば、今朝そんなこと言ってたっけ。

「本気？
苗字も変わっちゃうよ」

「本気
早く、あの家から解放されたくて」

「苗字が変わったからって、親子関係が終わるわけじゃないと思うよ」

「それでも変えたいんだけど、だめ？」

黒目がちな子犬みたいな目で聞かれたら、それを否定することなんかできなかった。

あーあ、私はけっこう横尾姓、気に入ってたんだけどな。









食事の後はお部屋探し。

ダイニングテーブルにノートパソコンを持ち込んで、並んで画面を覗き込む。

「場所はどうする？」

「私も会社は辞めるし、どこでもいいよ」

私のその返事に、彼はまた表情を曇らせてしまう。

「だって、元経営者の娘がいつまでも会社に居残るのも、よくないよね」

「Aは辞めて、何がしたいわけ」

「まだ決めてない
そのうち決めるよ」

「じゃあ、とりあえず仮住まい的な部屋を探す？」

仮住まいか…。

それもいいかもね。

今の私達にはそれが似合ってる。









「住んでみたい場所とかある？」

そう訊ねたら、彼はしばらく考え込んでから、

「今まで行ったことのないような場所がいい
誰も俺らのことを知らないような場所」

とか言うから、なんだか心配になってきた。

そんなに過去の自分を捨てたいんだ？

不意に彼の頬に手のひらを乗せたら、

少しだけ驚いた顔をしてたけど、すぐに彼は目を細めて頬を手のひらに委ねてくる。

そんな彼が愛しくて、そのまま頭ごと抱き寄せた。

「本当は、全部捨てて行きたい
この部屋にあるもの、全て」

きっと彼は、過去の記憶やしがらみも全部、ここに置いて行きたいんだと思う。








「怖くない？」

そんな不躾な質問をする私に、

「何も怖いものがないのが、逆に怖い
怖いのはAを失うことだけ
Aがいなくなったら俺は、もう生きてる意味がなくなる」

そう言い切ってしまう彼を見て、また私は心配になる。

今の彼の世界には、自分と私しかいないんじゃないだろうか。

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