幾夜寝覚めね

三十六 ページ37

「ほんに美味しいお団子…」

温かい陽気の下で味わうお団子とお茶は、私に何とも言えない解放感を味あわせていた。

「あら、和泉さんや」

突然声をかけてきたのは見知らぬ女性だった。白粉の匂いと上等そうな着物で一目に遊女だとわかった。
涼しげな眼に柳眉、瓜実顔が美しい。

「どちら様でありんしょう」
「あぁ、名乗り忘れておりんした。大稲楼の喜瀬川でありんす」

私の眼前で微笑むのは、喜瀬川花魁、その人だった。

「あれから何もお返事を頂けんした故、てっきり吉原を抜けたのかと思いんした」

恐ろしさに四肢が固まり、喉はカラカラに干上がっていく。
何も返すことが出来ない私をしり目に、喜瀬川花魁は続ける。

「聞けば、呼出昼三に成りんさったんでしょう？羨ましい限りでありんすなぁ。
人の間夫を誑かしになっても悪びれる気も無いとは、雛鶴屋も見上げたものでありんす」
「……申し訳ありんせん、あれはあちきがすべて悪うござりんす。見世には何も関係ありんせん」

必死に頭を下げると、しばらくの沈黙が流れる。
肩にそっと手が置かれて、驚いて思わず顔を上げる。

「もう終わったこと。あの方はわっちのもとに帰ってきてくださったし、手打ちにしんしょう」
「え？」
「意地悪を言って悪うござんした。つい、思い出してしまいんして」

急にそんなことを言われて呆気にとられてしまう。唖然としたまま、動けなかった。

「それじゃあ、またどこかで。お互いに頑張りましょうねぇ」

にこやかに風のように去って行ってしまった。ともあれ、私は突然下ろされた方の荷に、安心しきって息をついた。

「お勘定をお願いいたしんす」
「お嬢さん、篠田様の言ってた娘でしょう？話はよく聞いているよ。折角だから、奥でもう一服」
「でも、そろそろ見世に帰らないと…」
「いいからいいから」

無理矢理押し込まれるようにして、奥の座敷に通された。
何の装飾もない小さな部屋は実家を思わせた。

「遅いな」

茶を持ってくるからと出ていった店主がそれきり帰ってこない。
何となく嫌な予感がして、引き戸に手をかけた。

………開かない。

「誰か！誰かいませんか！」

最悪だ。店内に数人客がいたことを思い出して、力の限り戸を叩いて声を上げた。
しかし、誰も気が付かないのか人の来る気配すらなかった。

「悪く思わないで」

戸外に店主の声が聞こえたが最後、パチパチと木がはぜる音が聞こえ始めた。

それにがっくりと肩を落とし私は座敷の隅に腰を下ろした。

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