幾夜寝覚めね

十三 ページ14

「お前はほんとに幸せもんだよ」
「うらやましいわぁ」

私は今、白粉を塗り、髪をきれいに結いなおしてもらっている。
先日、常連の篠田様から突き出しのお話が私にあったのだ。

「篠田様に水揚げしていただくんだ、お前はなんにも心配しなくていい。
黙ってされるがままに従っていりゃあいい」

篠田様は数ある武家の中でも特に身分の高い方。
中見世の雛鶴屋にはどうあっても手放せない上客なのだ。

そんな方に私は今夜、水揚げ、つまり遊女としてのデビューの
最初の客となってもらうのだ。

「あちきは篠田様と一度しかお会いしたことがありんせん。
どうしてあちきを？」
「その一度でお前を見初めてくれたんだ。ありがたいことさ」

女将さんは私の顔に白粉をはたきながら言った。

「いいなぁ、わっちなんてよぼよぼのご隠居だったんだから」
「わっちは博打で勝った田舎侍だったわ」

手の空いた先輩遊女たちも、着付けや化粧を手伝いに来てくれている。

「さ、後は頼んだよ。あたしゃ忙しいんだ」

塗残しがないか確認すると、女将さんはバタバタと出ていった。

「A、紅を空蝉姐さんから預かってたんだ」

そういうと先輩遊女の夕顔は、懐から大事そうに小さな木箱を取り出した。

「空蝉姐さんが、あんたが独り立ちしたら渡せって」
「姐さんが？」

箱の中には、姐さんが大好きだった朝顔の花が描かれた、
小町紅が入っていた。

「空蝉姐さんが使っていたものさ。小町紅だ、大切に使うんだよ」
「あい」

鏡台に再び向かって、目尻、頬、唇にそっと伸せる。
玉虫色にうっすらと輝く紅は、姐さんを思い出させた。

「綺麗だねぇ」
「ほんに」

鏡の中の自分は、見たことが無いほどに、硬い表情をしていた。

「そんなに気負わなくて大丈夫だ。力を抜いて、身を任せておけばいい」
「しっかりやっておいで」

首を一つ縦に振って、深く深呼吸をする。
覚悟は決まった。今日は私が神様に近づく初めての一歩なんだ。
重しなんて気にすることはない。

「A、行くよ」

見世を出るとき、なんだか生まれ変わったような気持ちになった。
ここに帰ってくるとき、私は新しい人間だ。本当の意味での遊女になる。

大行灯の真っ赤な光が、改めて歓迎してくれているような気がした。

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