三十通目 ページ30
季節は梅雨に入り何となく世間の空気もどんよりしている。健吾は湿度の高い教室の中で本を読んでいた。
数日前に席替えが行われ、不運なことにAとは席がだいぶと離れてしまった。席が離れたのは残念なことなのだが、都合のいい部分も少しだけあった。
実は読んでいる本はAから手紙の箱を通して借りたものだった。隣の席で読んでしまえば、ペンギンの正体を勘付かれる可能性もあるが、物理的な距離ができている今はこうしてあまり気にせずこの本を読むことが出来る。
「あ、それ、俺が好きな本じゃん」
そこへ期せずして総士がやって来て、彼の手元を指さしながら明るくそう言った。
それは言葉だけ見れば別に何てことないものなのだけれど、健吾の心はその一言で絶望に似た谷底に突き落とされることになった。
"好きな本は何?"
これが前回の手紙に健吾が書き加えた一文だった。彼がこの話題を避けていたのは、本がAと総士を結んだ唯一の糸であったからだ。
もし彼女の答えが総士の好きな本であったら気に食わない、という漠然とした嫌悪感があった。答えた本がそれならば、Aの心はまだしかっりと総士を見つめているという意味になるのだ、といった勝手な定義が健吾の頭に固く存在した。
そういった理由で、文通を初めて間もない頃は聞かなかったし聞けなかった。その頃はAの気持ちが逸れることなく総士に向いているのは明らかであったので、その事実を更に深く刻まれることになるのは分かりきっていたからだ。
そして今やっと聞いたのは、彼女の気持ちを試す目的がほとんどだった。交わした手紙で随分と彼女との仲が深まっていると健吾は自信を持っていた。最近Aの笑顔が明るくなったのも、彼女と関わる人が少しずつ増えてきたのも、自分の力が少なからず関係していると思っていた。
生憎、普段本の話などしない総士の好みの本など知らないので、彼女が手紙と共に入れてくれた本がそれだとは分からなかった。
後で総士に聞こうと健吾は思っていたのだが、覚悟も出来ていない今、突然虚しい結果が分かってしまったのだ。
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megumi(プロフ) - パトさん» 素敵なコメントありがとうございます!幸せな時間を差し上げることが出来たなんて、とても嬉しいです。これかの執筆活動の励みになりました。 (2021年3月7日 19時) (レス) id: 1a15500b7d (このIDを非表示/違反報告)
パト(プロフ) - 素敵な作品を作って下さりありがとうございます。文章が綺麗でほのぼのとした雰囲気も好きすぎて、一気読みしてしまいました。幸せな時間をありがとうございます。 (2021年3月7日 17時) (レス) id: 8ed95612e3 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:megumi | 作成日時:2020年2月1日 23時