少しの後戻り ページ29
分かって欲しい。はっきりと奥さんの名前を出さずとも、私の言った言葉の意味を悟って欲しかった。
彼は何も言わないで、ただ二人の間に風が流れて春の日差しが揺れている。奥さんへの愛に気付いたのだろうか、それともまだ自信の愛に覆いをかけたままなのか、その無言が何を意味しているのかは分からない。
早くここから立ち去ろう。立ち去らなければ、また彼の優しさを求めてしまうから。
「さようなら」
滲む視界に彼を映しながら告げた。
やはり、私からこの言葉を言わなければならないんですね、と心の中で憂いて俯く。
そして目の前にある胸板に両手をつけ、震える腕で突き放した。
でも、彼の心拍が伝わる所に置いたその手を、なかなか離せなかった。
「君も良い人と幸せに……」
すると、私が言葉を遮ってから黙り込んでいた彼が、やっと小さく一言発した。
その響きはとても温かいのに、彼が私に言えば、哀しくて切ない意味になる。
痛いほど愛する人に、他の誰かとの幸せを願われるなんて、言葉にできないほど辛い。
涙の波が押し寄せて、引き波が哀しみを浮き立たせる。
手をそっと離そうとした時、その両手首が彼の手に捕まれる。その直後、ぐっと引かれて彼の胸に押し込められた。
「朝倉さん! 離し――」
急なことで驚いたが、はっとして必死に離れようとする。
しかし、私のその動きに苛立ちをぶつけるように、彼は更に強く苦しいくらいに引き寄せた。
「痛っ……」
不意に漏れたそんな声にも構うことなく、彼の力は強いままだ。
今まで感じたことのない彼がそこに居る。
これほどまでに強く求めるように抱き締められるなんて、初めてだった。
時間が巻き戻り、想いが後戻りする。また私はこの人から抜け出せない。
「A、痩せたね……ちゃんと食べられてる?」
優しい声が心に沁みて溶かされてゆく。
私はそのまま素直に抱き締められた。
奥さん、弱くてごめんなさい。
最後にこの数秒間だけ、彼の優しさをもらいます。でも本当にこれで最後にします。本当にごめんなさい。
この数秒後には、全て思い出にしますから。
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megumi(プロフ) - 楓さん» コメントありがとうございます。深く感じ取って頂けて、作者として本当に嬉しいです。たかが恋、されど恋……愛や恋は人生を大きく変えたり、辛かったり哀しかったり、幸せを与えたり、影響力が強いですよね。こちらこそ、読んで頂きありがとうございましたm(__)m! (2020年2月12日 8時) (レス) id: 0880e9be07 (このIDを非表示/違反報告)
楓 - 叶わぬ恋って本当に辛いの分かりますが、不倫はないので本当に夢主ちゃんは辛かったのだな、と思いました。何が正解で何が不正解なのかなんて誰にも分かりませんが、自分の決意した己が答えを見いだすことが正解なのだと私は思いました。ありがとうございました。 (2020年2月12日 3時) (レス) id: da7e11619f (このIDを非表示/違反報告)
megumi(プロフ) - あさん» ありがとうございます!この頃仕事でバタバタしていたので、更新頻度が落ちていましたm(__)mこれからも頑張りますのでよろしくお願いします! (2019年11月26日 7時) (レス) id: 38c83e71ca (このIDを非表示/違反報告)
あ - 連続更新嬉しいです!!頑張ってください! (2019年11月25日 23時) (レス) id: 42f53dea12 (このIDを非表示/違反報告)
megumi(プロフ) - あさん» ありがとうございます、励みになります!好きになって下さって嬉しいです( *´艸`)更新頑張ります! (2019年10月19日 20時) (レス) id: d64ff74b54 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:megumi | 作成日時:2019年7月26日 23時