嗚呼、愛しい人よ【中原中也】

10話 ページ10

｢今日はまた随分と荒れてるな｣




男は勝手知ったる風に部屋へ上がってくると、私が散らかしたビールの缶を片し始める。


その動作はあまりにも自然で、当たり前のようで、私は酷く泣きそうになったのだ。


貴方がここに来なくなった事を考える。


いくら荒れて、浴びるようにお酒を飲んでももう窘めてくれる人はいない。散らかしたビールの缶を片付けてくれる人もいないのだ。




貴方以外は。




いつ、最後が来るのかと怯えていた。




｢貴方の話が、聞きたい｣

｢なんだ？珍しいな｣

｢なんでもいいの。今日何を見たとか、美味しいご飯の話とか、なんでもいいから話して｣

｢なんでもいいって言われてもよォ｣




男は缶をビニール袋に詰め終わると帽子をテーブルの上に置き、コートをソファーの背もたれにかけ私の隣に腰掛けた。


少しでも長く、多く、貴方の声を聞いていたい。




｢あ、昨日虹を見た｣

｢何それ｣

｢いいワインの店を見つけたンだよ、いつ行こうか迷ってる｣

｢いつでも行けばいいじゃない｣

｢この間手前にそっくりな猫を見つけた｣




本当に、どうでもいい話ばかりだった。




｢手前と違って全然懐かねぇけど｣

｢私も懐いてなんかないわよ｣

｢よく言うぜ｣

｢そっくりそのままお返しするわ、通い妻の癖に｣




私から、男に会いに行くことはなかった。


会いに行きたくても、行けないのだ。


男の仮住まいをしりもしなければ、連絡先も知らない。


男が私の元を去った時、私は探すことすら出来ない。




貴方の事を教えて。


そういえたらどんなに楽になるだろうか。


縋ることすら出来ないなんて。




｢可愛くねぇやつ｣

｢可愛くなくても綺麗だからいいのよ｣

｢女は愛嬌だろ｣

｢なら他のとこに行けばいいじゃない｣




嘘、行かないで。


ここ以外の、どこにも。




｢素直じゃねぇなァ｣

｢悪かったわね｣




男は、私の頭を撫でた。


本当に、私の事を猫とでも思ってるんじゃないだろうか。


それでもいい。猫でも、なんでも貴方の傍に居られるなら。





｢手前だから来てるんだよ｣





気がついたらもう手遅れで。


ずぶずぶと、ずぶずぶと、深みにハマっていたのだ。

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