■優しさの狂気 ページ1
*
時計の針は数字の5を指している。アルファベット順に丁寧に設置された本の壁に囲まれ、カイは書斎で読書していた。
時計の鐘の音を聞いて、本から目を離し顔を上げる。…そろそろバルカさんも帰ってくるだろうし、晩飯の準備をしよう。本を閉じて起きた風で、前髪が一瞬ふわりと浮いた。
手に持っていた本を元ある場所に戻していると、階段をドタバタと駆け上がる音が聞こえた。相当急いでいるらしい。
その足音は徐々に近付き、書斎のドアを勢いよく開けた。
「お兄様!! カイお兄様!! バルカさんが！」
足音の主はマリエルだった。
顔色は真っ青で、今にも泣き出しそうに目を揺らしている。カイは様子がおかしい事に気が付いて、すぐに本棚から離れ、マリエルの側へ駆け寄った。「落ち着いて」とマリエルの小さな肩に乗せた両手は、マリエルの肩が震えることによって細かく上下する。
「大丈夫、大丈夫…どうしたんだ、そんなに急いで。バルカさんがどうしたんだ」
「…っ、すごい、大怪我で帰ってきて…！ 起きないの…」
マリエルの言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。たった数秒、されど数秒であったが、その空白が、行間が、カイの絶望を物語っていた。
「バルカさんが…？」
怪我？ 起きない？ どうして。何があって。ああ嫌だ、やめろやめろやめろ!! 嫌な事しか思い浮かばない！ 一気に意識が現実から遠のいていく。頭の中に溢れた文字が、真っ白になっていく。考える事を、この先を、放棄した。
その瞬間、理性がカイに怒鳴りつけた。「こんな事してる場合じゃないだろ！ 早くバルカさんの所へ行け！」
理性の声で我に返り、カイはマリエルの手を握って階段を駆け下りた。
他の子供達も、事態を聞き付けたのか玄関の方へ向かっている。徐々に近くなってくる嗅ぎ慣れない鉄の臭い。弟妹達の嗚咽。その先に横たわっていたのは、仮面の薔薇と全く同じ色をした、たった1人の父親だった。
耳を劈く様な家族の泣き声。鼻を刺す様な血液の香り。どれも心地が悪くて、今にも目眩を起こしそうだった。
「バルカさん!! なんで！」
ハンニバルに駆け寄り、服を掴んで揺する。幾ら名前を呼んでも、目を覚ましてさえくれなかった。薄らと、何かを見守るように開かれた彼の瞳は、どんどんと濁っていく。皆にハンニバルから優しく離されて残ったのは、手についたまだ生暖かい血液だった。
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