字【角名倫太郎】 (ページ2)

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「Aさん、そろそろ時間ですよ」
俺はAさんの隣に腰掛けそう声を掛けた。飲食店の4人用の机の上は白い封筒で覆われていた。どれも微妙に書き掛けで、Aさんは小さく「違う」と溢しながらも香典袋に字を書いていた。
「Aさん」
「あ、ごめん。気づいてなかった」
何回目かの呼びかけでAさんはようやく顔を上げた。上を向いたからもう顔に睫毛の陰を落とす事はなかった。
「やっぱり、むずかしいね。……私いっつも書いてもらってたから」
薄墨で書かれたその文字は線が細くとも整っていて、Aさんらしい。そういえばAさんは教科書から結婚の際の熨斗袋まで、いつも北さんに書いてもらっていた。

「私、信介の字、好きなの。右の払いが真っ直ぐしてて、ちゃんとしろ、って言ってくれる感じがするから」
そう言っていたのはいつの時だったか。なんでもない部活の帰り道だった。Aさんは確かミルクティーを飲んでいた。どうしてそんな話になったのか思い出せない。はっきりとわかるのは夕陽に照らされたAさんが目を細めて笑っていた事だけだ。
「…もう、いいと思いますよ」
「うん、そうだね。私には無理だよ」
自嘲的にその字を見つめたAさんにかける上手な言葉が浮かばなかった。

お坊さんのお経を聴きながら俺はAさんを見ていた。相変わらずどこを見ているのか分からない。ただただ茫然と北さんの遺影を眺めていた。茶色の瞳は霧がかかったみたいに虚だ。でもその曇りは霧の様に簡単に晴れてはくれないだろうけど。Aさんには、北さんとAさんをよく知る人ほど話しかける事はしなかった。大耳さんだけが、軽く肩を叩いた。銀は、見てはいけない物を見た時のように、見て見ぬ振りをする時のように目を逸らした。

棺の中にいる北さんはやっぱりちゃんとしていて、何処か凛とした空気を纏っていた。Aさんを叱り、手本を見せて、それを見守る北さんは居ない。Aさんは俺の半分程しかない小さな手で北さんの髪を撫でた。先だけが黒い北さんの髪は綺麗だった。
「信介、私ーーー」
愛の言葉を囁くような顔をして北さんへ何かを言ったAさんはえも言われぬ艶があり、俺は劣情を覚えて喉を鳴らした。眉を顰めた治の顔がやけに脳裏にこびりついて離れなかった。