第三十八話 ページ40
「ケホッ」
アシリパさんの咳払いが合図だ。鹿が向こうの木から飛び出す。正直銃を扱えない私が杉元さんとここにいるべきなのか…わからないが、銃を構える杉元さんのそばでじっと待つ。
どんどん鹿が距離を詰めてくる。それなのに、杉元さんは全く動こうとしない。むしろ、鹿の向こうに見える何かを見ているような気がした。
「……杉元さん？」
「杉元撃てッ」
アシリパさんの大声に我に帰り、杉元さんがようやく近づいてきた鹿に気付く。彼の銃が鹿のツノに突かれ、空に向かって発砲してしまう。このままリロードを待てば鹿に追いかけられる。杉元さんの横から走り、鹿を追いかけた。このままあの時のように短刀を投げれば…
同時に大きな足音が近づいてくる。振り返ると、白い影が私を横切った。太陽の光を反射し、獲物を狙うその目は…
「レタラ！」
レタラが鹿の喉元に噛み付き、鹿の動きを完全に塞いだ。それに遅れてアシリパさんがこちらに駆け寄ってくる。
「レタラ、そのまま押さえてろ」
「アシリパさん、どこに止めを刺せば？」
「レタラの丁度手の当たりだ。地面に向かって垂直に！」
短刀で鹿の腹を割く。鹿は苦しそうな断末魔をあげると、しばらくして動かなくなった。
「なぜ撃たなかった！？お前が仕留めると言っていたはずだ！」
彼女がそう問いかけると、彼は震えた声で、呼吸を荒くしながら答えた。
「傷口の血が……ツララになって揺れていた。ツララを溶かす体温も残っていないのに。傷を負いながら懸命に生きようとするこいつに睨まれたら……動けなかった。
こいつは俺だ…」
彼の返答を聞くと、アシリパさんは突然鹿にナイフを差し込む。
「最後まで責任持てないなら最初から撃つな」
さらに切り込みを深く入れると、湯気が上がる。
「杉元…ここに手を入れてみろ」
「腹に？」
そう言われて彼が手を入れると、アシリパさんは彼に感想を言うよう促す。
「暑い…かじかんだ手がほぐれていく」
「鹿は死んで杉元を暖めた。鹿の体温がお前に移ってお前を生かす。私たちが肉を食べ、残りは木や草や大地の生命に置き換わる。鹿が生き抜いた価値は消えたりしない。」
彼女のその言葉を聞くと、ずっと険しかった彼の表情がやっと揺らぎ始めた。やはり、杉元さんのそばには彼女が。彼女のそばには彼がいなければならない。彼らには、他にない何かを感じるのだ。
「食うか！」
「食おう食おう！」
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作者名：ほほいほい | 作成日時：2021年8月26日 23時
