【ヒプノシスマイク短編集】俗悪

37.メサイアコンプレックス(天国獄) ページ37

、

やさしい夜明けの光は、擬似的な胎内回帰を思わせる。毎日少しずつ涼しくなっていく部屋の温度に、俺たちはふたりでまた夜を越すことができたのだ。おびえるように布団に包まるAは、どうにかしてしまいそうなくらいにかわいくて、いとおしい、ああ、俺はやはりこの子を守るべきなんだと思う。ふたつの体温が溶けのこるベッドから朝のくる匂いがする。
カーテンを開けて、ぼんやりと明るくなる空を見る。ビル群の隙間から徐々に明けてしまう夜は、名残惜しそうに、その輪郭を曖昧にして、やがていなくなる。
Aが、その光に抱かれて覚醒しつつあるようだ。俺はそばに行って、彼女の髪や頬を撫でて、存在を確認しなければならない。今日も生きているんだと確信が持てなければ、俺の心臓はとうとうおかしな脈を刻んでしまいそうだからだ。

「おはよう。よく眠れたか？」
キスを薄らと持ち上がるまぶたに落として、俺はなるだけ優しく言った。それには合成音声のような白々しさがあった。Aは泣きそうに眉をひそめて、「おはようございます」とかすれた声で、ひとりごとのように呟いた。ひそやかな言葉は、俺を居ないものにするようにすり抜けていったように感じた。
再三行われる虚しいこの確認行為は、俺たちにとってなんの意味も持たなかった。もしかすると、この朝は愛や執着に置き換えられるかもしれない。白黒ではとても塗りつぶせない、ひどい心の動き。神はどうしてこんな感情を俺たちに寄越したんだろう。まるで最低の裁定だった。

Aは今日もこの部屋で生きる。天国に似せた地獄となんら変わらないこの部屋。辛い苦しいと泣くこともなければ、嬉しい楽しいと笑うこともなく。俺とおなじ息を吸って吐いて生を泳ぐ。それがほんとうの生であるかは別にして、俺は彼女がいとおしいという気持ちであることに変わりはなかった、と、思う。Aがどうして目を逸らすのかわからない。

？

お聴き。
エンジン音。クラクション。呼び鈴。窓の開け閉め音。テレビ大音量。大声で駄弁る人々。雑踏。外は危ない。Aをあまりにも害するものがあまりにも多すぎる。
ごらん。
排気ガス。停止線。頻繁に開閉する自動ドア。溶解に目をぎらつかせる人々人人人。残酷に笑う。病気みたいに笑う 人たち。外になど出ないほうがいい。俺の目さえ見ていればいい。
最悪の結末にさえ目を瞑って、俺たちは愛のままごとをする。今日も。明日も。…

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