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その時の先生の表情は、想像していたのとは大きくかけ離れたものだった。
ニッコリと、綺麗に上がった口角。作り物のようなその笑顔に、普段は「僕」と言うところを「先生」とあえて言ったその言葉に。
教師と生徒という関係性をやんわりと、それでも明確に突き付けられて。そうして歩く下駄箱までの道は、普段とは明らかに違っていた。
帰り際に「補講の課題はちゃんと解いてもらったし、これで単位は取れるから。気を付けて」と声を掛けられ、先生は私がそこから出ていくのを待たずに職員室の方へと歩いていった。
どこか突き放すように変わった声色に、私と先生を繋いでいた細い糸みたいな何かが、するりと音もなくほどけたのがわかった。そこでやっと、自分のした行為の重大さを自覚した。
....多分もう、今まで通りの関係には戻れない。
じわじわと、足元をさらう波のように後悔だけが押し寄せて、そのままそれは全身を包んでいく。一人になった下駄箱に居続けるのも苦しくなって、何とか足を動かして、帰路を歩き出した。
来た時よりも涼しい時間の筈なのに、身体にまとわりつく蒸し暑い空気が息苦しくて。いつの間にか首元まで上がってきた後悔の波に、そのまま溺れてしまいそうだった。
家に帰ると母親に今回のテストの成績が知られていて、赤点なんてと叱られた。ぼんやりとしたままごめんなさいとだけ言って聞き流す私にお小言がエスカレートしそうになったけれど、弟の帰宅に母親の怒鳴り声はぴたりと止まった。
ああその程度か、そうだった。
この家が、この空間が、自分の居場所じゃない事を再確認した。
残った夏休みの十数日は、部屋で一人、先生への気持ちだけを抱えこんで過ごした。寝苦しい熱帯夜の空気に、あの時の事を何度も夢に見た。結末は毎回、現実と同じバッドエンドだった。
....それでも、先生のあの温かくて優しい笑顔と
口付けたその瞬間、一瞬だけ見せた蜂蜜のような目線を、忘れることができなかった。
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作者名:らぱん( ・×・ ) | 作者ホームページ:http://uranai.nosv.org/personal.php?t=d9fece3f785bc7d3ebaeeecd6103e95f...
作成日時:2019年2月23日 17時