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「今日はありがとな」
「いえ、こちらこそありがとうございました。ごちそうさまです」
マンションの前で頭を下げると、渉さんはニコッと笑った。それから、少しだけ言いにくそうに、口を開く。
「いいよ、こんくらい……あのさ、このあと、なんだけど」
その後を濁した様子で何を言わんとしているのかはすぐに分かった。どきり、と心臓が音を立てる。それはときめくと言うよりも、罪悪感からだった。
センラに痕をつけられていることに心の中で舌打ちをする。どうしてたったそれだけの事で、こんなにも後ろめたい気持ちになるのだろう。裏切ってしまったような気持ちはきっと、目の前にいる彼も同じような感情を持ち合わせているに違いない。
「すみません、今日は……」と小さく答えると、渉さんは慌てて首を振った。
「違うって。そういうんじゃなくて、前に見たいって言ってた映画、レンタルされてたから借りてきたんだよ。もし時間あるなら、って思って」
彼の言葉に、私は思わず顔を上げた。夜目でも分かるくらい、彼の顔は赤くなっている。
……ああ、渉さんは、欲のためだけに一緒に居ようとしてくれているわけじゃないんだ。
肩の力が抜けるように、気持ちが和らいでいくのを感じた。渉さんがそう思ってくれているのだということに、心から安堵した自分がいる。そう感じた瞬間、どうにも泣きたくなった。
「………すみません、明日、早くて」
罪悪感に背中を押され、俯きながらそう答えた。渉さんの目を見れずにいると、彼は「そうか」と小さくこぼす。
「仕方ないな。じゃ、また今度見よ」
「ぜひ。楽しみにしています」
「おやすみ」
「……おやすみなさい。気をつけて帰ってくださいね」
渉さんは小さく笑うと、そっと離れて踵を返した。その背中を見つめながら、こぼれそうになる涙を必死にこらえた。引き止めなかったのは自分のくせに、彼が振り返って戻ってきてはくれないかと心のどこかで思ってしまう。
渉さんには愛する人がいるのだ。悩んで、どうしようもなくて、でも離婚しようなんて露にも思わないほど、愛しいと思える人がいるのだ。
私がその人よりも先に渉さんと出会えていたなら、結果は変わっていたのだろうか。そんなこと、考えるまでもない。考えることすら、無意味なのに。
「…………ほんと、ばか」
自分に対して向けた言葉は、夜の空に溶けて消えた。
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あ(プロフ) - 初コメ失礼します。りひとさんの作品がとても大好きで過去作品も全て読ませて頂いております。続編もぜひ読みたいのですが、パスワードをお教えしてもらうことは出来ますでしょうか...?何分仕様が分からず、この場で聞くこと自体間違っていたら申し訳ありません。 (2021年2月10日 1時) (レス) id: e8d9509923 (このIDを非表示/違反報告)
りひと(プロフ) - あすかさん» 返信遅れてすみません。コメントありがとうございます。更新頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします。 (2020年12月14日 21時) (レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
あすか(プロフ) - 初コメ失礼します!めちゃめちゃ面白くて見る度に評価押しちゃいます(笑)今1番を楽しみにしている作品です!更新頑張ってください(T_T) (2020年11月5日 21時) (レス) id: a6330c149b (このIDを非表示/違反報告)
りひと(プロフ) - いずりすさん» ありがとうございます。いつもと違うテイストに挑戦するので私自身もどきどきしています笑お楽しみいただけるよう頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします。いずりすさんも体調には気をつけてくださいね。 (2020年10月14日 22時) (レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
りひと(プロフ) - Quuさん» ありがとうございます。お楽しみいただけるよう頑張ります。Quuさんもお体に気をつけてくださいね。今後ともよろしくお願いいたします。 (2020年10月14日 22時) (レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
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