86 一つの頼み ページ36
練習終わり。ぐっと背伸びをしながら校門までの道を歩いていると、後ろから追いかけてくる足音がした。
「A、今時間いいか？」
言いながら隣に並んだのは神童。何やらやけに思い詰めたような顔をしている。
「いいけど、何？」
「……頼みがあるんだ」
その眼差しの真摯さに戸惑った。
神童からこんな風に真剣に頼み事をされるのは初めてのことだった。一体何をお願いされるのだろう。
「どうしたの、改まって」
しかし問われた神童はすぐには返事をしなかった。
目線が私の顔ではなく、肩あたりを泳いでいる。口を開き、息を吸いかけてやめる。それを何回か繰り返し、
「──Aの演奏を、もう一度だけ聞きたい」
言った。
耳を疑った。今、なんて？
長い睫毛に縁取られた大きな目、通った鼻筋、形の整った唇。冗談を言っている顔には見えなかった。
「Aのバイオリンが聞きたいんだ」
ダメ押しのようにもう一度。
逃げるな──そう言われたようだった。
もうバイオリンはしないのか。いつかの日に投げかけられた言葉が頭の中を反芻する。
なんで今更私の演奏なんて。神童にとってなんの価値もない音色なんて。
「無茶な願いだってことはわかってる。でも──」
「わかってるならそんな頼みしないでよ」
呻くように呟いてから我に返る。
神童は打ちひしがれたような表情をしていたがそれも一瞬で、今度は自虐の交じった笑みを零す。
「そうだよな……ごめん。だけどAの演奏は俺の心を何度も勇気づけてくれたから──あと一度でいい。生で聞きたいんだ」
「は……？」
勇気づけられた？ 何を言ってるんだ。今日の神童はどこかおかしいんじゃないか。
……いや、方便か。私を傷つけないための優しい嘘。どんな真意があって私にバイオリンを弾かせたいのかは知らないが。
神童は、私の演奏を聞きたいと言った。ならピアノ伴奏はきっとない。
──弾く、だけなら。
「時間が欲しい」
「え……？」
「もう何年も触ってないの。メンテナンスもいるし、勘を取り戻さないときっと聞くに絶えない」
早口で言って目を逸らす。
最低限のレベルには戻さなければならない。そのための練習時間が必要だ。
「──ありがとう」
タイムリミットは来週の火曜、部活がない日に決まった。場所は神童の家。
帰り道、私たちは別れるまで一言も話さなかった。
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年2月15日 9時
