2.鯨の記憶 ページ4
「海を、」
一度堰を切ってしまえば簡単だ。嘘を吐く。その判断を下しただけで、するすると嘘の話を紡ぐことができた。
「海を見たことがない人間がいる。俺の兄だ」
唱は目の前の誘の腕を掴みながら言った。散っていた誘の焦点が、その瞬間だけ自分へ定まったのを唱は感じた。それでいい。君はまだ、そちらへ行くべきではない。合った焦点を縫い留めんと、唱は真っすぐに誘を見つめ返した。
「彼に海を伝えるには、俺はどうしたらいいかな。最後に一緒に考えてくれよ」
負けたよ、と誘は力が抜けたように笑った。
「俺が飽きるまでは、いいぜ」
言ったな、と唱はガッツポーズ代わりに誘の腕を一層強く握った。
嘘だった。兄はもう死んでいる。けれど目の前の誘はまだ生きている。ならば、兄の存在を利用した嘘で、誘を生かそうとすることに何の躊躇が必要だろうか。それに、まるっきり嘘だというわけではない。唱が知っている限り、兄が海を見たことがないというのは本当だ。ほぼ失敗の上陸作戦で彼が見たであろう、戦時中の真っ赤な海を除けば。ならば見たことがないと同然だと言っていい。
死んでいるのだから、兄に本当の海を伝えられるわけではない。もちろんない。別にそれでもいい。むしろどうだっていい。唱の目的はそれではない。
彼が掴んだ腕の先にいる深海誘は、不思議な男だった。動けばお道化、呼吸をするように嘘を吐き、けれどその声を歌声に変ずれば誰をも魅了する。軽薄そうであっても、覗き込むとどこまでも暗い淵がある人間性。掴みどころがない。けれど、掴みどころがないなりに、人々は彼を愛していた。綾部唱も、そんな人々のうちの一人であった。
唱は誘の目をもう一度見た。深い深い赤。しかし、それ以上踏み込んでくるのを拒むように、その目は唱の姿を映していた。
ああ、負けたな。実はこの瞬間にそう思っていた。
今更そんなことを言うのは、負け惜しみじみているだろうか。机を挟んで向かいに座る誘から視線を逸らし、それを床に這わせながら唱は思った。問を立ててから一か月以上経った。あの日からほとんど毎日彼らは会っている。唱の目的とは、彼をこの世に留めておくことだった。
“ア”との戦いが終結し、まだそう日は立っていない。そんなときに、彼から面と向かって「死」をほのめかされたときは驚いた。あの戦争を経て、“ア”との戦いを経て、まだ生きることができているのに？
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 1人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
