菩提樹下の逍遥《四》【文IスIト】

生き残りの地獄《中》 ページ19

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「こんにちは。緒方の若君」

「…こんにちは」


面を強打し、気絶させた薫に氷枕をなげつけ、伝平は意地悪く笑った。

伝平が優秀なのは座学だけではなく、実技のほうも負けなしの精鋭だ。薫も同年代では負けなしだったが、教官すらもてあそんで一掃する力も知恵もある伝平に一本もとれたことはない。


「あいわらず刀の才能なんてありゃしない。アイソをつかされるのも時間の問題ですよ」

「……じゃあ他に、どんな道があるってんだ。伝さんよ」


その質問、待ってました。といわんばかりに、伝平は荷物から一冊の本を取り出す。

床でぐったりとしたまま、眼だけで題名を読む薫の表情はどんどん曇っていく。


「春色江戸紫、池園物語ぃ…？」

「薫さん。あなたにはお芝居の才能がある」


伝平の家には問屋らしく、図書館顔負けの蔵書がある。コレクションのひとつらしい演劇のセリフ本を手に、少年らしい笑顔で言った。


「お芝居できっと、あなたは食べていける。刀よりよっぽど向いてますよ」

「やにさがってんでねぇや！はちゃめちゃに顔をねらってきたでねぇか！！小学生あいてにすることじゃねえだろ中学生！！！」

「だ、か、ら、刀より向いていると言っているんです」


たったこれだけのことを伝えるために、伝平は薫を実技の組み手でボコボコにしている。


「君は嫌いですか。芝居が」


伝平少年は、薫がちいさく重ねていく演技や嘘を「芝居」と見抜いた上で、役者としての才能を愛していた。ここまで奇特な人間にはこの先出会うことはないだろうと思いながら、無類の芝居好きである伝平をながめていた。


「脚本は、小説よりもよほど情報が少ない。行間に心情が書かれているほど親切じゃないんです。どこで息を吸うのか、感情をどう表現するのか、役者に全てを委ねていますから。
セリフだけが書いてある紙を見るだけで、役者は他人に化けるんです。脚本に書かれていることも、登場人物の人生の一瞬をきりとっただけに過ぎないのに。
これって恐ろしいことだと思いませんか？
　『演じる』とはそっくり他人の皮を被ることですよ。化けの皮をはがしたって、心の動きまで同じじゃなくっちゃつとまりません。人格ができあがっている人間を食いつぶすように、『役』という別人格を憑依させるなんて…まともな人間にできやしません」



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