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そのまま言葉を交わすことなく、ふたりはホテルになだれ込んだ。
男が招き込んだのは見るからに高そうで、陳腐なラブホテルではないことだけが確かだった。
フロントに預けていた鍵を受け取り、言葉をいくつか交わした辺り、男はここに元より泊まっていたらしい。
視線で合図を受けた女は、男の数歩後に続いた。
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エレベーターに乗り込み、男が押した数字は最上階の3つ下だった。
揺れも音もない静かな箱内で、先にこの空気を切り裂いたのは男だった。
「愛が欲しいのか?」
『まったく』
男の筋違いな言葉に、女は即答だった。
「名前は?」
『‥一晩だけの関係に、必要かしら』
男は声に出さずに喉で笑った。
さっきまでは、暗がりにいたせいか気づかなかったが、男の瞳は澄みきった翡翠色だ。
右目にかかる髪が少しばかり気になり、手が出かかったが、男の目がまっすぐに自身を捉えたことにより、それはあくまで未遂に終わった。
「行為中、名前を呼びたい派でな。無理にとは言わない」
男は悪戯っぽく笑った。それが事実かどうかは置いておくとして、とんでもない男を引っかけたと思った。
身長は少なく見積もっても、20センチは高い。手足はモデルのように長く、着衣の上からでも引き締まった体なのが分かるし、何より男前だ。
『ミズキ』
Aは一瞬躊躇したが、名前とも取れなくない自分の名字を呟いた。
まだまだ、エレベーターが目的の階に着くことはない。
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「俺の名前は聞かないのか?」
『行為中に名前を呼ばれることがご所望なら聞くけど、興味はないわ』
男は楽しそうに口角を上げるが、その笑みを声に変えることはなかった。
「いやいい、それは趣味じゃない」
ゆっくりとエレベーターが止まり、小さくベルの音が鳴る。
扉が開いた先には、バーガンディーのベルベット絨毯が広がっていた。踏みしめたヒールの先から伝わる質感が、慣れたものじゃなかった。
男は端の部屋で足を止め、カードを指した。
扉を開け、レディーファーストだと声に出さず、部屋の奥を手で示す。
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作者名:ハル | 作成日時:2021年9月12日 0時