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「そんなに畏まることもないだろうに。あ、これ新しい社員証。そこでピッってするやつな」
「ありがとうございます」
首に下げる社員証も認証システムも本社で馴染みがあったものだ。
ちなみに社員証には就職時に履歴書に貼った証明写真が採用されている。若い。まだ荒波に揉まれる前で目に光があり、自分で言うのも何だが表情からも生気を感じる。
受け取ろうと手を差し出すが、なぜか菊田さんは頭上で紐部分を広げていた。
私たちの間には妙な沈黙が訪れた。
逡巡ののち、え？これ首にかけてもらう感じ？と気付き、こっそり視線だけで見上げるが、菊田さんは菊田さんで、さも当然みたいな顔をしている。何故なのか。
私は既に立派な成人女性である。また初対面に甘えん坊キャラを押し通す勇気も持ち合わせていない。
「自分でつけられます」
「ん？……あ。そうか、そうだったな」
辿々しく手を両手を差し出すと今度こそ社員証は私の手の中に収まった。
この人天然なんだろうか。見上げた先で恥ずかしげに目を逸らす菊田さんの様子から察するに冗談でやったようには思えないが、思わず表情が緩む。あるいはお子さんにも同じようにやっているんだろうか。
「聞いてると思うけどシステム部の新規立ち上げをすることになってるから……まあ、歩きながらでいいか。とにかくパソコンのセットアップだな。どのくらいかかる？」
「パソコンの動作と基本設定次第ですが、一時間なくても十分業務に取り掛かることができる程度にできます。全部となると時間がかかります」
「いや、面倒だろうが時間をかけても今日中に全部やっておいていい。まずは総務部で名刺受け取りがてら挨拶回りな」
「わかりました」
彼に続きオフィスに続く道にあるゲートの認証部に社員証を近付けると、ピッと軽く小さく電子音がした。
菊田さんは、あ、と思い出したようにロビーとは反対側の奥まった空間を指差す。向こうが社員食堂な、と付け加えられたのを聞き、心なしか出汁のような優しくて柔らかい香りがするような気がした。どこか実家を思い出すようなぼんやりとした心地で、いいにおいですね、と頷くと、菊田さんは軽く笑って答える。
本社の食堂から出汁の香りがすることは正直あまりなかった。どちらかというとやたらと味が濃くて、冷凍が多くてかわいたような食感とか舌にへばりつくみたいな後味とか、どこかディストピアを感じることはあれど(あながち間違いでもないかもしれない)。
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作者名：エコ | 作成日時：2023年4月10日 23時
