モーニングスター家の次女【ハズビンホテル】 (ページ10)

今日:37 hit、昨日:59 hit、合計:12,079 hit

０８ページ10

＊

　悪魔は星を知らない。果てしなく深い地底に広がる世界には色鮮やかな空はあれど、太陽も月も拝むことは叶わない。ごく少数の悪魔を除いて。

　Aは建物の壁に寄りかかり、夜空を見上げた。地獄のそれぞれの階層が常に同じ色なのに対して、人間界の空は一日で何色にも変わる。澄んだ青から燃えるような赤へ、炎が消えれば深い眠りのような暗色へと変化する。この日も弱々しく星が瞬いていたが、人工的な光がなくなればさぞ生き生きと輝くことだろう。

「アンソニー」

　救えなかった青年の名を呟き、Aは俯く。更生し、善を積み重ねて長く生きる者もいれば、新しい人生を歩む前に前触れなく命を落としてしまう者もいる。アンソニーは後者であった。

　彼と特別親しかったわけではない。自分はあくまで更生への道を指し、送り出すだけだ。それでもやるせない気持ちになるのは抑えきれない。もしも恵まれた環境に生まれていたら、幸せな家庭で育っていたなら……あんな最期は迎えなかったはずだ。

　彼の死因はドラッグの過剰摂取だった。その薬の名前は……。

「お嬢さん」
　
　顔を上げたAの目に、細身の若い男が映った。ワイシャツに上質な黒色のラペルドベスト、金色のスティックピアスというカジュアルな装いで、すっきりとした黒色の短髪に聖職者のように整った顔立ちをしている。外見だけならばいかにも女性が放っておかなそうな好青年だが、海の色に似たサックスブルーの瞳はどこか酷薄に見える。

　返事を待たずに彼は右手に抱えた茶色の紙袋を開いてみせた。中には白い粉を包んだいくつものビニールの小袋が入っている。

「おひとつどうかな？今なら安くしておくよ」

「これは……？」

「天使の塵(エンジェル・ダスト)さ。幸福を味わいたいならおすすめ」

　途端にAは目の前の男を殴りつけたい衝動に駆られた。『エンジェル・ダスト』。それこそがアンソニーの命を奪ったドラッグの名だった。

　今すぐこの男を殺して地獄に落としてしまおう。束の間、そんな危険な考えが脳裏を支配した。一度指を鳴らせば男は炎に包まれ、焼け朽ちるだろう。

「いえ、結構です」

　殺意に満ちた妄想を振り払い、Aは会釈してその場を後にした。角を曲がったところで指を鳴らし、紙袋を燃やす。

　男は短く声を上げ、袋を落とす。火傷ひとつ負ってはいないが、薬は全て燃え尽きてしまった。

「あーあ。もったいない」