逃げるは恥だが (ページ1)

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序:壱ページ1

とにかく自分の姿を消してしまいたかった。存在も記憶も、世界から見放されてしまいたかった。けれど、どこに行っても、どこに振り返っても人、人人人。俺の背中を見てヒソヒソと何かを言ってやがる。早く、早く誰にも気付かれない場所へ。自分しかしない世界へ。
　吐いた息から血が混じりそうなぐらい肺が痛い。どのくらい走っただろう。
　ハッとした時には、煌びやかな商店街の路地、普段は表に出ない暗がりへと足を踏み入れていた。
　どこかの扉のガラス窓に手をついて、足を止める。
　ここなら、誰にも背中を見られない。
　安心からか、すぐに足の力が抜けてドアを背にその場に座り込んだ。
　
「オイチビ、誰の店だと思ってんだゴラ」

　はぁ…と息を吐いたその時だ。
　人の声が頭上から聞こえた。
　冷や汗をかきながら、恐る恐る上を見上げる。そこには黒髪のくせっ毛で、目に光がない細長い男が立っていた。薄らとその額に血管が浮かんでいて、怒っているのだとわかった。
　やばい、変なやつに絡まれた。

「ご、ごめんなさ」

　ここにも人がいた。早く逃げなきゃ。
　だが、手足に力を込めて立ち上がろうとしても、ガクッと体制が崩れる。腰が持ち上がらない。
　最悪だ。腰が抜けてる。
　男は腰に巻き付けている上着を揺らしながら目の前にしゃがみ込むと、俺の髪を後ろに軽く引っ張って目を合わせて口角を上げて言う。

「ハッ、ダセェな。」

　俺の何もかもをぶち壊した言葉だった。
　そんなの自分でもわかってんだよ。弱虫で、度胸もなくて、逃げてばっかで、漫画のヒーローみてぇになんかを守る力なんてない。
　わかってんだよ。

「…かってんだよ！んな事は！」
「っと、」

　気づいたら、男に拳を向けていた。
　けど、案の定、拳は空を切っただけだった。なんで当たんねぇんだよ。効かなくてもいいからせめて当たれよ。
　怒りの矛先を失ったガキの俺は、泣くことしかできない。

「ダサいダサいってうるせェな！
　…っ怖いンだよ！向かってくる拳が！足が！声が！
　分かんねぇだろうな！強ぇヤツにはさ！弱いヤツの気持ちが…っ！」

　ヤバい。止まんねぇ。
　あったかい何かが大量に頬を流れて、服にシミを作っていく。
　喉が絞められてるみたいに苦しい。ズタズタの心から溢れ出した言葉を吐き出す度に、身体中にナイフが突き刺さってるみたいだ。
　痛てぇなクソ。
　男の胸ぐらを掴んで、泣きっ面で睨みつける。