加瀬と鬼嶋 ページ20
それは普通の研修を終えて五年後に始めた総合医療の研修が終わった日の夜中だった。
研修期間は原則二年間。
病院や資格によって違うけれど、彼女の夢が叶うのには長い時間を要した。
それが終わった記念すべき日にAは、薄暗ーい医局でむさ苦しい程のメンツで過ごしていた。
彼女の大好きなアイスで釣って救命に誘ってくる加瀬をスルーし、Aは勝手に四宮の机にあったカルテを覗き込む。
なんて普段と変わらない生活をしてた。
そんな時に彼女の担当外の妊婦さんが心停止して、コードブルーが宣言された。
医局にいるのは加瀬とAだけで、他はみんな研修中の子たちや、産科とは別の人達がポツポツいるくらいだった。
いざ患者を前にしたらAは固まり、蘇生術をする加瀬の傍らで指示だけして、何もできそうになかった。
救命に二年、NICUに一年、産科に四年。
その経験を振り絞ってしても、母の死の真相を聞いていたAは急に怖くなった。
加瀬がAの脛を蹴るまでは頭は真っ白だった。
気づけば蘇生を開始して三分が経っていて、
Aの手はメスを持ったまま震えていた。
周りはまだ後期研修医や、前期研修医の医師ばかり。
今の今まで何もしないで突っ立っていた事を悔しく思うが、それ以上に見たこともない母親の最期を思い出して震えが止まらないのだ。
「死戦期...死戦期帝王切開を開始します...
一分で出します...」
加瀬が蘇生術をしている傍で、Aは震えるメスを握って患者の腹を切る。
___死産だった。
お腹の中で赤ちゃんは死んでいた。
赤ちゃんは生まれてきた事に気づく前にいなくなってしまった。
______
「私は...私は...失敗したんでしょうか...」
「...母体優先の世界で、お前がした判断は間違っちゃいない。失敗もしてない。人一人の命救ってんだよ。」
ベンチに膝を丸めて座り、顔を埋めて泣くA。
加瀬はそれを慰めるように隣に座って、ポロポロとAの口から出る言葉を頷いて聞いていた。
加瀬は長年救命をしている中で、何度も助けられなかった命を見てきた。
数の問題ではないが、Aがここまで落ち込む理由は知らなかった。
母体の蘇生は成功し、今容態は安定している。
胎児は亡くなってしまったけれど、必要な手術だったし、手際のいいAのおかげで危ないことにもならなかった。
「...」
「もっと胸張れ。ベテラン研修医。」
「今日で終わりですよ」
「おぉそうか。おめでとう」
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 66人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：長官 | 作成日時：2020年5月3日 17時
