episode357 ページ17
まだ、あの話を素直に受け入れられる訳じゃない。
でも、嘘だと跳ね除けるには条件が揃いすぎている。
宿舎を一度、歩いて1周しておく。
目の届くところなら、全てを把握しておきたいというのは、しぶとく残ってしまった私の悪癖。
(とりあえず＿＿一旦は、クールダウンかな)
灰崎くんとお揃いのマグカップに、ミネラルウォーターを注ぐ。頭を少しでも冷やせるようにと、氷もたくさん入れる。
ただの水なら普通のグラスでもいいのに、今の状況の中ですぐ手の伸ばせる癒しを求めた結果、このマグで飲むことにした。
キン。頭と目が、嫌でも冴える。
ぼんやりと言いようのない熱でぼやけていた輪郭が、徐々に戻ってくる気がした。
(……私を、来善って呼んだ。それも、嬉しそうに)
あのひとの亡霊を、愛したひとなのだろう。
私だって、優しかった“父さん”のことは、好きだった。
でも、あんな姿を見たら。
好きという感情を失くしてしまうのだって、仕方ないじゃない……。
子どものように喜ぶ彼の表情に反して、私はあの場で何も言えなかった。
そのうちひとつはきっと、私があのひとの恐ろしい一面を知ってしまっているから。
彼は、あのひとの狂ってしまった姿を知らないのだ。
私が、由羽真くんの藻掻き苦しむ姿を知らないように。そう思うと、責めることはできなくなる。
運がいいのか悪いのかは、分からない。
ただ、彼は彼で、幸せであればいいんだ。
何も、知らないままでいい。
(そして……私が何も言えなかった、もうひとつの理由は)
酷い違和感が、したから。
私を来善と呼んで、嬉しそうに駆け寄った彼に。
＿＿“ずっと探していたんだ、君を”
＿＿“君と話がしたい。また、会いたいんだ”
優しい“花綺更 来善”しか、知らないひと。
(それでも、甘えているというよりは……何だか、泣きついているみたいだった。私を通して、花綺更 来善に)
父親は、母親と駆け落ち同然で、生まれ育ったロシアを飛び出した。
その時ロシアで、何も知らずに置いてきぼりをくらった、子ども。
同情は、できないわけじゃない。でも、なんだろう。
大切なひとと会えなくなったというよりは＿＿親を亡くして、行く宛を失くした、子どもみたいだった。
(……大人の男性に向けての第一印象には、あまり相応しくないかな)
すっかり冷たくなったマグを、そっと頬に当てる。
いくら冷静になっても、その思考はどうにも疑えないまま。
また、会いたい。
別れ際の悲痛な言葉が、胸に残る。
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作者名：三峰 契 | 作成日時：2022年3月31日 19時
