1話 美味かった ページ2
ガチャリ、と言う音が聞こえ、閉じていた目を開けた。家主が帰ってきたらしい。
行くあても帰るあてもない、自称記憶喪失の怪しい男を保護してくれるような優しい人だ。ほら今だって、ベランダに椅子を出して座っていた僕に、冷えるぞと温かいコーヒーを入れてくれている。
「なんでいつもベランダにいるんだ」
『部屋でじっとしているよりはいいかなと』
「合鍵は渡しているだろう」
風見さんはよく外に出ようと誘ってくれる。それはただの散歩だったり、買い物だったり。言葉にしないが、僕の記憶が戻るきっかけになればと思ってのものだろう。警察官だという彼は休みが少ないというのに。
「一人で外に出るのは怖いか?」
部屋に戻ってすぐ、気遣わしげに言われた言葉に曖昧な笑みを返す。
別に外が怖いわけではない。銃創や拷問痕があったとして、人が怖くなったわけではないのだ。もちろん、こめかみにある傷痕を見られたくないわけでもない。
ただ、一人で外に出る意義が見いだせないのだ。何を見るでもない、何をするでもない。やりたいことも、やらねばならないこともない。取り戻したい記憶もない。
なら日がな一日、ベランダで過ごしていた方が、刺激が少なく何も考えなくていいし、有意義に感じる。現実逃避に他ならないのはわかっているのだけれどね。
「弁当、美味かった」
『うん。余計なお世話にならなくて良かった』
この家にお邪魔してから、家事全般を僕が担当している。始めは警戒が必要な仕事をする風見さんに遠慮していたが、あまりにも機械的な動きしかしないため無理を言って任せて貰った。
家事のほとんどを家電のタイマー機能に頼り、食事に至ってはコンビニ弁当が常。居候初日に申し訳なさそうにどちらの弁当が良いかと言われたときには、流石に驚いて自炊しないのかと聞いてしまった。
そして、今日は朝ご飯のついでに弁当を作ってみたのだが、ちゃんと食べてくれたらしい。頑なに所属先は教えてくれないが、その態度から公安の人間だろうことは予測できる。人が作ったものを気軽に口に出来ないことも知っている。
それでも食べてこうして感想までくれるのだから、風見さんは僕を信用してくれているのだろう。それが嬉しくもあり、申し訳なくもある。
彼に自らの秘密を打ち明ける日はくるのだろうか‥‥。
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