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反動のように静寂が訪れる。
私がけほ、と咳を一つしたら、無惨さまはくるりと振り向いてこちらへ近寄ってきた。私はカカシみたいに突っ立ったまま、真っ直ぐ私へ近寄る主を見ていた。
「A」
再び、顎をとられる。無惨さまは勝ち誇ったような顔をしている。そうだろうそうだろう。だって、さよ子という人間の人生を変えてまでしてほしかった言葉が、作戦通り得られたのだから、それは嬉しいだろう。
別に、全部無惨さまの思惑通りだったから拗ねてなんて、いない。
……さよ子がかわいそうだなんて、もはや思わない。私の譲れないものを脅かそうとした人間を心配できるほど、私は綺麗な人間じゃない。けれど、こうなって良かったと素直に喜べるわけでもない。私はそんなに我欲に走る人間でもない。
ただ、こんな大層なことをしてまで欲したのが私の独占欲だったなんて、目が眩みそうではあるけれど。まあ無惨さまはきっと、そんなふうに揺れ揺れる私の心も、ぜんぶぜんぶお見通しなのだろう。
「もう一度言ってみろ、A。私に何を望む?」
無惨さまの期待に満ちた目。私はどうもこの目を見ていると、予想を裏切りたくなってしまうという面倒くさい性質をもつらしい。無惨さまに自己推薦し、拾われたあの日のように、私は無惨さまに鼻先をくっつけて、不敵な笑みを浮かべた。
「私は無惨さまに何も望みません」
無惨さまは目を見開いた。赤い瞳いっぱいに私がうつる。そう、それでいい。無惨さまはそうやって、私の言葉に驚いていればいい。
「その代わり私は無惨さまに、『お前以外は居らない』と泣いて懇願させてみます」
なんて図々しい。私がこんなこと言われたらそんなふうに思って怒るにきまってる。
けれど無惨さまは、私を怒らないから。私は無惨さまに怒られないから。
「……言ったな?」
無惨さまは口元を緩め、ふっと笑った。嬉しそうに目を細め、梅干し色が煌めく。
「私は無惨さまのAですから。有言実行してみせますとも」
無惨さまの顔が近寄ってきて、唇と唇が触れそうな距離でピタリと止まる。目を見開くと、なぜか私と同じように驚いた顔の無惨さまと目が合う。無惨さまはわずかに瞳を揺らすと、私の額に一つ唇を落とした。
「私のA。私だけのAだ」
顎が私の頭に乗せられ、ゆるく抱きしめられる。囁くように言うその言葉に、私は不覚にも、胸がぎゅっと締め付けられるように感じた。
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モブちゃん - 無惨様、優しい!マジで素敵な作品です。更新、頑張ってください。 (2020年11月8日 21時) (レス) id: 2f84cbf165 (このIDを非表示/違反報告)
かめ(プロフ) - 無惨様大好きです!というか鬼陣営好きすぎるので、鬼贔屓な作品は本当に嬉しくて…しかも内容も面白く!素敵な作品ありがとうございます! (2020年7月6日 22時) (レス) id: 0b12b82150 (このIDを非表示/違反報告)
りんご - 好きですありがとうございます (2020年4月25日 3時) (レス) id: aef362accb (このIDを非表示/違反報告)
きの(プロフ) - そこらへんの小説なんかより面白すぎて泣いてます…天才ですか…?! (2020年3月24日 22時) (レス) id: 2bb340e5dc (このIDを非表示/違反報告)
hina - ああああああ神なんですか!?いや神なんだよねそうに違いない (2020年1月20日 18時) (レス) id: c01e14d75d (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:きりんの木 | 作成日時:2019年10月22日 21時