夏の夜の夢【オリジナル超短編小説／枢町草葉荘シリーズ ⑧】

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本作は枢町草葉荘シリーズの８作目です。登場人物紹介はこちら。
※登場人物紹介はネタバレを含みます。本編を読了後の閲覧を推奨します。

兄貴が嫌いな話です。
作中の「マコト」は作者名と同じですが、作者はかなりまったくの無関係ですのでどうぞ無視してお楽しみください。

ご感想お待ちしております。誤字脱字等はコメント欄にてお知らせください。その他何かございましたらこちらへお願いします。

本作にはアンケートが作成されています。分析のため、たくさんの回答をお待ちしております。(50個くらい…欲しいなァ…)→アンケートへ

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　その夜はとても蒸し暑かった。

　数時間前まで朝のような明るさだった空は知らぬ間に暗転し、すでにとっぷりと暮れてしまっているのに、昼間の暑さはコンクリートに残ったまま、そこにあった。虫の声がうるさく、風はない。

　夏は好きだけど、暑いのは好きじゃない。

　マコトは枕元のうちわを持った。ゆっくりと首を振る扇風機も、野郎部屋では無いに等しい。暑いし、隣で寝ているカイのいびきもうるさくて全然眠たくない。カイは人間というより動物に近いので、眠りにつくのと飯を食うのだけは速い。貪欲で、即物的だ。

　紙張りのうちわで仰ぐが、生ぬるい風が一瞬肌を撫でるくらいで、全くと言っていいほど涼しくなかった。マコトは蚊帳ごしに庭を覗き込んだ。部屋の中より、外の方が幾分ましな気がした。

　うちわを持ったまま身を起こして、甚平の前だけおざなりに整え、尻を掻きながら蚊帳の外へ出る。隣の蚊帳では涼と利久のペアが寝ている。縁側へ出て座り込むと、うすらぼんやりと月の明かりが手元を照らしてくれた。

　庭は響が手入れしているらしく、ご主人の趣味で植えられた様々な木々は、それぞれ一番綺麗に見える形で自然に整えられて、調和を保っている。

　この家は山の中にある割に蚊があまり出ないので、気にせずほうけることができた。

　響が昼間何をしているのか、マコトは知らない。今まで専業主夫のような存在だと思っていたが、探しても家にいない時が多々ある。学校に行っているような雰囲気はないが、涼の勉強をみてやれるくらいの学力がある。峰彦に教わっているのだろうか。だとしたら、いつ？

「マコト」
「わあっ！」

　声のした方を見ると、闇が一か所だけ薄い。

「まだ起きていたのか」
「いきなり声かけんなよ、びっくりしたぁ」

　響だ。マコトは目を逸らした。

「なんだよ」
「早く寝ろ」
「眠れないんだよ」
「暑くて？」
「わかってんじゃん」
「じゃあ涼しいところ行くか」

　マコトは目を丸くして響を見上げた。

『じゃあ、涼しいところ、行こうか』

「なんだ？　眠れないんだろ？」

　響は、長く黒い前髪の、その奥の冷たい目で、マコトを見つめた。響の目はいつも、何かを見透かしたように細められている。

「……行くか」

　三坂神社の境内は涼しかった。壁がない分、風が通る。息をつくと、響が隣に腰を下ろした。

「あんまくっつくなよ。暑苦しいわ」
「ああ、すまん」
「………………」

　横目で響を見やる。

「どうなの、最近」
「何が」
「術とか」

　ああ、と響は納得したように頷く。まあまあ上手くいっているらしい。

「まずまずといったところだな。はじめは慣れなかったが最近は寝ていてもちゃんと動かせている」
「えっすげえなそれ」
「まあな」
「なんか出してよ」
「なんかって何だ」
「鳩とか」
「手品か」

　言いつつも響は左の手のひらを上に向けた。じっと見ていると、ぼっ、と音を立てて一升瓶ほどの大きさの火が浮く。

「うわっ」
「実際に燃やせるぞ」
「ばか！　近づけんな！」
「ほらほら」
「うわーっ」

　珍しく響のノリがよかったのでマコトはけたけたと笑った。響も無表情を崩し、口元だけすこし笑った。

「ふうん。いや、思ったよりすごいわ。それ響は熱くねぇの？」
「ない」
「変なの」

　手を近づけてみると確かに熱い。対して響は平然としている。マコトは顎を掻いて手をついた。

「成長したなぁ」

　今なら話してくれるだろうかと思い聞いてみる。

「峰彦とは連絡取ってんの？」

　響は口をつぐんだ。純粋な殺意を感じ取って、マコトはごくりと唾を飲んだ。

「取らない。しるか、あんな奴」
「……そんな嫌ってた？　なんかあったの？」
「成長するにつれて、アレの意地汚さが理解できるようになってくる。嫌で仕方がない。昔はああでも、尊敬していたんだ」
「そりゃ、お前を守ってくれる唯一の肉親だったんだから当然だろ。べつに意地汚くないだろ。そんな言い方も、ないだろ」
「いや。断言する。俺はあの人が嫌いだ。許せない。身内だからって許されると思っているところがまた嫌いだ」

　煙草の件をまだ引きずっているのだろうか。マコトは考えて手のひらを広げる。

「あいつは狡猾な奴だけど、そんな悪い奴でもないだろ。あのくらい、世間にはごまんといる。生きていくために、そうするしかなかった奴だ。お前のためにああなったとも言える。責められないだろ、仕方ないじゃん」

　響は顎を上げ、きつくマコトを睨んだ。

「だとしたら何だ？」

　闇に風が溶けこむ。伴って響の声が溶けこむ。

「俺のためだろうと何だろうと、ああなることを選んだのは兄さん自身だ。俺の干渉できることじゃない。『精神的に向上心のない者はばかだ』。知っているだろう。俺もそう思う。停滞は退化と同義だ。嫌いなんだ。あの人だけじゃない、精神的に向上心のない者が」

　峰彦と違って、響は正しさを強いた。他人にも、しかしそれよりさらに厳しく自分にも。嘘をつくものを糾弾する。間違っていることが嫌いで、不合理なことに折り合いをつけられない。それが長所で、短所でもあった。今の峰彦を生んだのが響ならば、同じく、今の響を生んだのは、きっと峰彦だ。

「マコト、お前はきっとあの人のことを憎からず思っているんだろう。そして、あの人をここまで嫌悪する俺のことがよくわからないだろう。もしかすると、仲良くして欲しいと思っているかもしれない」
「うん」
「俺もそうするべきだと思っている」
「じゃあしろよ」
「無理だ。嫌いだ」
「はっきり言うな、お前は。あのさ」

　マコトは広げた手を上下に振った。

「峰彦はお前のこと大好きだよ」
「そうか？」

　マコトは唇を舐めた。必死だった。峰彦の情の深さは知っている。説明すべきだ。わかってもらったほうがいい。

「峰彦はたしかにヘラヘラ笑ってるし、いちいち鼻につくし、見下してくるけど、世渡りのために──さっきも言ったけど響を守るために、そうしてきたわけじゃん。盆や正月に帰ってきた時も、お前はあいつとろくに話そうとしないけど、あっちは話したそうに見てるんだぜ。ご主人そっちのけでお前の視線を求めてんだよ。あいつは、自分が人間であるよりも、守りたいものを優先しちゃったんだよ。そのために……反対に、人を切り捨てる勇気を得た。残酷だよな。切り捨てることは。お前は人の繋がりの重要性を知ってるし、俺よりも勧めるだろう。じゃ、付き合ってやれよ。お前が変わらない限り、たぶんずっと、峰彦はあのままだよ」

　マコトの長い台詞を、響は黙って聞いていた。喋り終えたあとも、静かに俯いていた。マコトが困惑したような顔をして息を吐く。

「まさかお前に諭されるなんてな」
「諭してねぇよ」
「いつもの減らず口かと思ったら、非常に不愉快なことを言ってくれる」

　ふっと響は口元だけ笑った。

「つまり図星ってことだ」
「そうだな」
「ソクラテスは間違っていなかったのさ」
「ハ？」
「対話を通して気づきを得る。肘掛椅子に座って踏ん反り返る知識人とは、俺も話す気にはならない。マコトは俺のソクラテスだな」
「ちょっと意味わかんないから黙ってくれる？　きっしょ」

　響は面白くなさそうに無表情でマコトを見つめた。そして腰をあげる。

「帰る」
「えっ、帰るの」
「マコトに説教されて気分を害した。明日はお前だけおやつなしだ」
「なっ！　権力の使い方があくどいぞ」
「ははははは、お前のハーゲンダッツは俺のものだ……あ、そういえば、マコト」

　響が袂に手を入れながら横顔を向ける。

「ご主人がお前の浮気症をどうにかしてくれと疲れた顔でお頼みになったから一応言っておくぞ。あまり不誠実なことをするな」

　マコトはきょとんとして、ふっと息を吐いた。唇が弧を描く。響はそれを見て、眉を上げた。わざとゆっくり、マコトは言った。

「もうそれについてのお小言を言わないって約束してくれたら、俺のハーゲンダッツバニラ味はお前にやるよ」
「約束はできないな。ご主人の約束のほうが先だからな。まぁでもハーゲンダッツはもらってやってもいい」
「いや何言ってんのお前。あと、ことあるごとに俺のハーゲンダッツを引き合いに出すのやめてね、お願いだから」

　ロウがわざわざ保冷バッグにつめて持ってきたハーゲンダッツの最後の一個だ。たやすく渡すことはできない。マコトは優しく見えるように微笑んだ。

「俺は股をかけてこその色男なんだよ。自分の特性くらいわかってらぁ。俺が浮気しなくなったら、死ぬんだと思っていいよ」
「死ぬのか」
「死ぬね。生きることを諦めるね」

　好きな人を複数作るから、余裕が生まれる。『別にこいつとうまくいかなくてもいい』というスタンスは、自分の魅力と努力を最大限引き出してくれる。本気じゃないステージで本気を出すのが特技だ。自分自身でそれをよくわかっている。

「お前はいい腕をしている。ハニートラップに使えるだろう」
「わぁ、悪い顔」
「で？」
「はい？」
「ご主人の……“お願い”だ。あくまで、“命令”ではなく。だが……ご主人に背くのか？　お前が？」

　まさかな、とでも続けそうな響に立ち向かうようにマコトは立ち上がる。

「背くよ」

　響の表情が険しくなる。マコトは反対に穏やかに、静かに言う。

「響、目を覚ませ。いや、これから寝るんだけどね」

　マコトは顎を引いた。

「俺に規律と自由を同時に教えたのはお前だけだ。お前は正しさを求めるわりに、心の自由性も保っている。すごく珍しい。そんなお前がご主人からの賞罰を期待するのは、正直言ってご主人の洗脳の賜物だと思う」
「俺がご主人に騙されてるって言いたいのか」
「だから、洗脳だよ。自由を説くお前が忘れてくれるな」

　響は言葉に詰まって眉をひそめる。

「ご主人は案外怖いぜ」

　あの人は天然だからな。

　響は目を伏せて、マコトの名前を呼んだ。

「今日は俺の部屋で寝ろ」
「なんで？」
「暑いんだろう」
「あー、うん」

　マコトは歩き出した響の背を追って、境内を振り返った。かすかにおあげの匂いがして、腹がきゅるりと鳴った。

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