禍殃の黒猫 (４)

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　いつもの通りに雑然とした部屋だ。隼人は部屋の空気を吸い込んだ。
　英也の部屋は、ひどく落ち着く居場所だった。綺麗好きなわけではないのに、物が少なすぎて閑散とした自分の部屋とは違い、建物が古くて湿気がこもりやすく、部屋の隅にカビの生えているような、ゲーム機や本が床に散らばり、たまにそれらを踏んで、足の裏を怪我してしまうような、割り箸の突っ込まれたカップ麺のがらが今日も食卓の上に放置されている、ため息をつけるような、無秩序な空間。英也の好きなものしか詰まっていない彼らしい空間──なぜかそれらに執着をもってしまう。
　もしかすると自分のような種類の人間が英也のような人間と一緒にいるのは、毛並みのいい人たちと歩むのが、窮屈だからなのかもしれない。
「お前がモーホーだったら今あぶねー状況だな」
　英也がなぜか嬉しそうに言う。
「その話まだ続けんの？　つーかモーホーでも、誰でもいいってことないと思うんだけど」
「いや、俺かわいいから」
「冗談やめろ……ていうか掘られる前提？」
「お前の方がでかいじゃん。本気で喧嘩したら、やっぱり体格差で有利不利が決まる。つーか襲うんなら普通、モーホーが掘る側なんじゃねーの？」
　英也はポテチの空袋を床に直置きしてあるゴミ袋に突っ込み、ハードカバーの本やPSPをかき分けたり机の上や布団の上に放って、テレビの前に腰を下ろした。
「来いよ。マリカやろマリカ」
「病人は寝てろって……」
　人間は嘘をつく。英也も例に漏れず。けれども、サイコパスでもない限り、完璧にはつけない。英也が自分で言うように、嘘をついている時はわかりやすいくらいに表情が変わる。
　英也は他人のためにしか嘘をつかない。今は誰のために嘘をついているというのか。
「やりてーの」
「寝てろ。マリカは俺が一人でやるからさ」
「意味ねーじゃん！」
　マリカなんてできる体調じゃないことは、英也ほどに察しが良くなくても、何年もそばにいたらなんとなくわかってしまうものだ。
「英也ってさー」
「俺もマリカやりてぇ……」
「どんだけやりたいんだよ」
「なに？」
「いや、お前頭悪いわりに小説読むよな。しかもあんまラノベっぽいのないし」
「物語シリーズとかあるけど」
「ああ」
「小説の方がコスパいいことに気づいたんだよ。金なきゃ図書館行きゃいいし、漫画より内容多いから時間潰せるし、頻繁に読む本変えなくていいし。あと、ほら、字だけだろ。ぱっと見何読んでるかわかんねぇじゃん」
「なにもっともらしいこと言ってんだよ、直美が『本読む人っていいよね』って言ってからだろ、読み出したの」
「うるせぇ」
　隼人が気づいた時には、英也は冷蔵庫の前にしゃがんでいた。小さい冷蔵庫だ。一人暮らしにはちょうどいいのかもしれないけれど、毎日のように遊びに来る友達のことを考えると、買い換えた方がいいに決まってる。
「英也」
「なんだよ」
　コーラの1.5リットルサイズのペットボトルが英也の手に握られている。何を言われるのか、さっぱり理解していない惚けた顔だった。
「……お前さ、変な奴だよな」
「ふん？　そうか？」
　どんな場所にいても英也は英也だ。変わらない人間がいることに、驚いたものだ。
「そうさ」
　なにもなかった頃の平和な教室でも、自分が床で寝そべっている教室でも、口だけはいつも中立のそれで、それなのに我関せずといった顔をして、人間の行動を監視しているみたいだった。
　人が隠れて泣いてる時に頻繁に現れては邪魔だといってトイレから追い出し、教室に戻るように仕向けてくるし。ノリで牛乳ぶっかけてくるし。掃除サボって人任せにするし。食えないのにわざと給食山盛りにするし。
　それなのに、ゲーセンで取ったぬいぐるみをくれたり、告げ口しようとしたらついてきて頼んでもないのに味方になったり、一人でぶらぶらしててもばったり出くわしてついてきたり、シューティングゲームのコツ教えてくれたり、家に遊びに来たり、友達紹介したり、捨て猫の里親探し手伝ってくれたり。
「俺はお前の方が変だと思うけどな」
「え、何が？」
「髪なげーし、ほせーし、女顔だし、もしかしてモーホー」
「オイコラ喧嘩売ってんのか」
「あ？　やんのかコラお前なんかなぁ赤子の手を捻るようなもんだぜ、こいよ」
　英也が煽るように顎を上げ、唇の端を吊り上げる。隼人は手近にあったリモコンを投げた。英也は驚いてそれを受け止めた。
「うおっ危ねぇ！　物投げるのはねぇだろ！」
「や、なんか馬鹿なこと言ってる馬鹿がいるから」
「当たってたらどうすんだよ」
「足元狙ったし」
「女々しいキレ方だなぁ……」
　ぼそりと呟かれたが、聞こえないふりをした。女々しい、なんて聞きなれた言葉だ。
「なぁ英也」
「なんだよ」
「なぜ人殺しをしてはいけないんだと思う？」
　と。
　一番聞きたかったことを聞けば、英也はいつも絶対に、戸惑う。
　どんなときも。

　唐突なその問いに、思考回路がショートした。なぜそんなことを聞くのか。冗談を言っている風には聞こえない。意見を求めているから訊いた、という感じに、聞こえた。
「法律で決まってるからなんじゃねぇの？」
「俺もそう思うよ」
　とりあえず探りを入れるために言った意見に、隼人はそう返した。
「じゃあなんで聞いたんだよ」
「お前なら」
　隼人は思いつめたような様子で、一度唇を噛んで。
「英也なら、なんか、違うこと考えてるんじゃないかなぁって、思ったから」
　勝手に手が動いて、隼人の肩を掴んだ。
「隼人」
　鼻先に見える隼人の顔が歪む。自分の声が自分のものに聞こえないくらい、低く、かすれている。
「お前、何考えてんだ」
「痛い」
「答えろよ！」
　隼人の視線が逃げる。
「痛いって」
　俯いた隼人の顔を、女のように伸ばされた長い黒髪が覆う。
　力のこもった手を、なんとか下ろす。少ししびれていた。指先を見つめてから、拳を作る。
「目ェそらすなよ。逃げても何にも解決しねぇ……」
　逃げることで何が変わった？　過ぎ去るのを待つことで、助けを待つことで、お前は何を得た？　何も手に入れてないだろ。ただ、失っただけだろう。
「いやだ」
「え？　あ、おい」
　英也が慌てた様子でふたたび隼人の肩をつかもうとして、迷って、手を引っ込める。
「いやだ……」
「な、泣くなよ。なんで泣くんだよ。悪かったって」
　少し上ずった声で取り繕うと、隼人は大きな背を丸めて、膝を抱えた。
「なぁ、英也、覚えてるか」
「なにを？」
　ゆっくりと噛みしめるように隼人は、予想もしなかったことを口にした。

「俺たち、猫を殺したことがあったよな」

　その言葉が、理解されることなく頭の中を堂々めぐる。英也は息を飲んだ。陳腐な言い回しであるからゆえに、その言葉が余計残酷に聞こえたから。
　では、ない。
　そんな単純なことでは、なかった。
「隼人」
　英也は、小さく丸まってこちらを上目遣いに見ている黒髪の男に、少しばかり首を傾けて、怪訝そうな顔をした。
「なに言ってるんだ？」
　それは。
「──なにって」
「そんな……ことが、あったか？」
　それは、英也の記憶にはない事実だった。
「あっただろ。まさか忘れたのか？」
「………………」
「轢いた。バイクで。二人乗りしてたんだ。茂みから黒猫がぱっと飛び出してきて、でかい音して、すごかっただろ。覚えてないのか。お前のほうが、よっぽど取り乱してたのに」
　頭に手をやる。焦りとともに、頭痛がぶり返してくる。
「痛え……」
「あっおい、英也！」
　サンダルをつっかけ、奥歯を噛み締めながら薄いドアを開ける。甲高い音がして、叫ぶ隼人の声を遮るように、パタンと閉まった。
　周囲に視線を巡らす。網膜が赤く染まってくる気がする。細く詰まった何かが切れそうな感覚がある。
　英也は、ある一点を見つけて、そこに視線をとめた。こちらを、満月の明るさを持つ黄色い目が二つ、見つめていた。手すりを掴み、脱げそうになるサンダルを庇いながら、横の階段を降りる。
「英也！」
　階上から隼人の急いた声が降ってくるが、そのまま猫のところへ走る。猫はこちらを見ると、家と家の間に入っていった。
「逃がすか」
　自分が何をしているのか、よくわからなかった。
　逃げているのは猫じゃない、自分自身だ。何かから逃げた、そんな気がした。そして、意味もなく黒猫を追いかけている。猫を、見かけたから、なんだ。なぜ、猫が頭痛の原因になる？　それを突き止めることで、自分はどんな事実に行き当たると言うのだろう。
　頭がぼーっとしてきて、目前を軽やかに走る猫の姿がわずかにぶれ始める。いつの間にか、見たことのない場所にいた。
「英也」
　背後から隼人の声がする。
「隼人……」
「猫なんて、いないよ」
　英也が隼人を振り返る。その表情に、隼人は顔をしかめた。英也の、開いた薄い唇の隙間から、赤い舌が見えた。
「知ってる」

→禍殃の黒猫[5]（公開され次第リンクされます）

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