午前七時半 ページ29
──鏡花や、愛しの鏡花、
──そなたはほんに愛いのう。
柘植の櫛に染み込んだ香油の香りが好きだった。側に置かれた行燈は膝元を薄明るく照らしている。髪を丁寧に梳く手は心地よく、鏡花を微睡みへと誘う。
彼女がマフィアに在籍していた時分、確かに存在した穏やかな時間である。
□□□
畳にうつ伏せになった子供は、広げた紙の上で、握った鉛筆を真剣に動かしていた。腕が動く度に小さな寝癖がひょこひょこと跳ねる。鏡花はそれを暫く無言で見つめた後、木櫛と寝癖直しを持って戻ってきた。
「A、此方に来て」
「んー」
ずるずると這って鏡花の元に向かった子供を正座の姿勢にさせる。鏡花はその背後に膝を着いた。
「? 何を……」
「髪を梳く」
そう云いながら鏡花は子供の白髪に寝癖直しを吹きかけた。シュッシュッという音と共に緩やかに香った花の香りに、子供は心地良さそうに目を閉じる。
「貴女は身なりに無頓着な嫌いがある」
「いいだろ別に。死ぬわけでもあるまいに」
「駄目。もっと気を遣うべき」
子供の髪に触れながら、髪質まで彼に似ているのかと鏡花は考えた。恋仲でもないのであの男の髪に触れたこと等ないが、かつては近くで見ていた髪の癖や跳ね方は子供も彼もよく似ていた。
こんなに似ているのに、子供ははっきりと身内の可能性を否定した。曰く、『私に家族はいない』と。鏡花の前でだけ、子供はそう言い切った。
「鏡花の髪は綺麗だな」
「母様と……ある人が手入れしてくれていたから」
「ある人?……鏡花、母様ってどんな人だ」
「すごく優しい。けれど少し厳しくて、何時も私達のことを考えてくれているような、そんな人」
それは鏡花の中の母親像だった。「命をかけて子を守ってくれる人」鏡花は髪を梳かしながら、万感の感情を込めて言った。子供は「へえ」と意外そうに頷いた後、『母』がよくわからなくなった。ただ生む役割の人とだけ考えていたのだ。
子供の髪の手触りが良くなってきた頃、鏡花は横に櫛を置いた。
「A、貴女も髪を伸ばすと良い。きっと綺麗」
「手入れが面倒だ」
「なら私がする」
「ずっと?」
「ずっと」
鏡花は子供の狭い肩に手を置き、大きな瞳を閉じて項に額を寄せた。こそばゆがった子供のくすくす笑いが聞こえて、鏡花は瞼を下ろしたまま笑みを漏らした。
「私は、貴女を救いたい」
空虚だった子供の瞳を見た時から変わらない、鏡花の願いだ。
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ロト - こめ(元団子)さん» お久しぶりです!最近わりと多忙でした…少し時間が空いてきたので見てみようと思えば結構更新されてて嬉しかったです!癒されました〜! (2019年8月25日 23時) (レス) id: 84710b8cd8 (このIDを非表示/違反報告)
こめ(元団子)(プロフ) - ロトさん» ロトさん! お久しぶりですね! そうです娘主は奔放な子供なので自由に遊び回っては国木田さんに叱られ 最終的には追いかけ回されますw (2019年8月25日 22時) (レス) id: a3e8a2be57 (このIDを非表示/違反報告)
ロト - 近所迷惑(社員寮)……つまり、国木田さんの胃痛が増すんですね分かります。 (2019年8月25日 1時) (レス) id: 84710b8cd8 (このIDを非表示/違反報告)
こめ(元団子)(プロフ) - 来霧さん» やったー!ありがとうございます これからもお付き合いください! (2019年8月19日 2時) (レス) id: a3e8a2be57 (このIDを非表示/違反報告)
来霧(プロフ) - 続きが!きになりすぎます!!応援していますー!頑張ってください! (2019年8月17日 0時) (レス) id: cc1c1fbc8a (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:こめ | 作成日時:2019年6月22日 21時